3度目の緊急事態宣言。今、音楽・映画ライターの僕が考えていること。

本日、3度目の緊急事態宣言が発令されました。

新型コロナウイルスの感染拡大は一向に止まらず、先行きが全く見えない状況の中で、多くの方が、それぞれの立場や環境において迷い葛藤しているのではないかと思っています。

特に、文化や芸術の領域について。僕自身としては、音楽・映画ライターとして活動する中で、この険しい現実を前に圧倒的な無力感を感じています。同時に、音楽・映画ライターとして、僅かでも自分にできることを模索し続けています。今回は、その一歩として、今、考えていることを言葉としてまとめました。


●春フェスの開催について

昨日4月24日、「ARABAKI ROCK FEST」の開催中止が発表されました。僕自身としては、このフェスに参加する予定はありませんでしたが、昨年から今年の開催に至るまでの経緯を追っていたため、胸を締め付けられるような思いです。

現時点では、「JAPAN JAM」「VIVA LA ROCK」をはじめとする複数の春フェス(開催地は、千葉、埼玉、神奈川など)が、当初の予定通り開催に向けて動いています。こうしたご時世において、大型の音楽フェスが開催されることに疑念や違和感を持つ人もいると思います。

ただ僕としては、様々な選択肢があった中で、それでも「開催する」と決めた主催者の覚悟ある決断を支持したいと思います。僕が代弁するのもおこがましいかもしれませんが、それぞれの主催者、および、スタッフたちは、参加者やアーティストの安全と安心を第一に考えながら、この一年間、ウィズ・コロナ時代における新しいスタンダードの確立を目指して絶え間ないトライアルを重ねてきました。

もちろん、様々なリスクやコストを踏まえて「開催しない」という決断に至った主催者もいると思います。「参加しない」と決めた参加者や、フェス出演とは異なる形で新しい表現の可能性を模索しているアーティストもいます。それら全ての決断は、等しく認め合うべきものであると思っています。

ただ、僕が恐れているのは、音楽フェスが「分断」の象徴になってしまうことです。「開催する」「開催するべきではない」「参加する」「参加するべきではない」など、様々な意見やスタンスがあることは間違いありませんが、もし、フェス開催に関する情報が正しく共有されていないことで、そうした断絶が加速してしまったら、それは非常に悲しいことだと思います。

僕自身としては、国や各自治体が定めたルールを厳守し、最大限の感染対策を講じた上で「開催する」と決断した主催者を、心から応援したいと思っています。そして、「分断」を深めないために、音楽を愛する人たちが、お互いにそれぞれの考え方やスタンスを認め合えるようになるためにも、各フェスの対応やその結果にまつわる情報を、できる限り伝えていこうと思っています。

以下、「JAPAN JAM 2021」開催にあたってのメッセージ、その一部引用です。

「今回は音楽ファンだけでなく、社会全体が春フェスに注目することになるでしょう。その中で、参加者の皆さんと一緒に、この状況下でも安全で自由で楽しいフェスが創れることを証明したいと思います。」

この春、それぞれのフェスが、新しいフェス様式を確立してくれることを、一人の音楽リスナーとして信じ続けたいです。


●映画館の営業休止について

4月23日、映画『るろうに剣心 最終章 The Final』の公開に合わせて、大友啓史監督は「嵐の中、覚悟の船出です」「エンタメの灯を無くすわけにはいかない」という力強い言葉を残してくれました。

しかしその直後、緊急事態宣言が発表され、本日から、多くの映画館が営業休止となってしまいます。

この月末からゴールデンウィークにかけて公開される予定だった作品は、確実に大きなダメージを被ります。しかも、公開直後の新作の中には、『るろうに剣心』『名探偵コナン』をはじめ、約1年の公開延期を経て、ついに封切られた作品もありました。それぞれの作品の製作陣やキャスト、また、劇場スタッフの方々の気持ちを思うと、とても胸が痛いです。

映画メディアや映画ライターの方たちについても同じです。一つ一つの記事には、「一人でも多くの人に、新しい映画との出会いのきっかけを提供したい」「映画館に足を運んで欲しい」という想いが込められているはずで、少なくとも僕は、そうした意志を込めて記事を執筆しています。だからこそ、いくつもの新作が公開された直後のタイミングで、多くの映画館が営業休止してしまうことは、言葉を失うほどに辛いことです。

何よりも、新しい作品の鑑賞を心から楽しみにしていた人々の気持ちを思うと、何重もの意味で複雑な気持ちが込み上げてきます。それは、約1年前、1度目の緊急事態宣言の時の感情と近いですが、1年が経っても状況が好転していないという意味で、その落胆はより深いです。

現実は非常に険しいですが、それでも「エンタメの灯」を繋ぐために、僕は微力ながら、映画ライターとしてできることをしていきたいです。


●「シン・トセイ」について

東京都の公式noteにおいて、この「シン・トセイ」という言葉が初めて用いら始めたのは少し前のことですが、昨日、緊急事態宣言の詳細が発表されたことを受けて、このネーミングの是非が、再びSNSで大きな話題となりました。(詳しくは、Twitterのハッシュタグ「#シン・トセイ」をご覧ください。)

東京都の構造改革推進チームが掲げるビジョンや、その実現に向けた具体的な施策については、あえてここでは触れません。一つだけ記したいのは、僕自身が「シン・トセイ」という言葉に感じた痛烈な違和感についてです。

その違和感は、昨年の動画「うちで踊ろう」の件で感じたものに近いです。既存のエンタメコンテンツを「文字る」のであれば、元となるコンテンツへの深い理解と批評性、そして何よりも、そのクリエイターへの愛と敬意が、前提としてあって然るべきだと思っています。(文芸批評の分野において、そうした表現を「オマージュ」と表します。)しかし、ここでは詳細は割愛しますが、僕はこの記事を読んで、庵野秀明監督の作品を愛する者として、ただただ悲しい気持ちになりました。

そして同時に、カルチャーやエンターテインメントについての認識や姿勢、感覚にまつわる圧倒的な「断然」を感じています。もし、この「文字り」に悪意がないとして、いや、悪意がないのであれば尚更に、こうした感覚の差が開いていること(開き続けていること)は、それこそ憂うべき事態だと思います。

様々な作品が、その本質とはかけ離れた形で面白半分で引用されていくと、文化や芸術の世界で何が起こるか。問われているのは、そうした未来を憂う「想像力」です。そしてその「想像力」を、本来は、文化史の健全な発展のためにこそ用いていくべきだと思っています。その未来の実現のために、僕は、より普遍的なものとして「批評」というカルチャーを広めていく必要があると考えています。

おこがましい言い方かもしれませんが、僕は、音楽・映画ライターとして、何重もの「断絶」を埋め、広く「想像力」を共有し合っていくために、これからも音楽批評・映画批評に努めていきたいと思っています。


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