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人生に乾杯 25(「運が悪い」?)

少し前、ある腫瘍専門医が自身のがん体験記を記していた。ご本人は「なぜ自分が?」とか「自分は運が悪かった」と思ったと言う。記事もこの言葉を見出しに取っていた。偽らざる心境だと思う。

本文を読みながら、新聞記者をしていた頃のある場面がパッと思い浮かんだ。20年以上前、内勤の整理記者を経験した時の出来事だ。朝刊番になると最終降版は日付が変わる午前1時ごろなので、そこから小1時間、当番デスク(当時は編集局に複数いる局次長クラスが夕刊朝刊で入れ替わる、紙面統括責任者)とテーブルを囲んで「お疲れ様会」の飲みの席が始まる。その時は、北九州を皮切りに仕事をスタートし、東京でこれから輝かしい未来が待ていた整理記者の先輩が数か月に心臓発作で亡くなった話になった。家族で温泉に出かけたという。僕は縁があって個人的にも知っている人だった。当番デスク(その後社長になった)は「運が悪かったんだな」と真面目に、繰り返し口にした。周囲で卓を囲んでいた記者陣(整理部だけでなく出稿部からも加勢があった)も、彼の口調に押し黙った。

真面目に話しているのだが、僕には所詮他人事としか聞こえなかった。あまりにも降版デスクの話が長くなる中、だんだんイライラしてきた僕は「あんたに死んだ彼のことが分かるか!」と、口元まで出かかった。その後、僕は会社を辞めたが、人づてにこの当番デスクの芳しくない噂を耳にし続けた。

「運が悪かった」は以来、大嫌いな言葉になった。運は自分でどうにもならない。心臓発作など誰にも起きそうなものだし、僕の脳腫瘍、肺に転移した大腸がん、元を辿れば大腸がんも自分の力では抗いきれない。日々の生活で気をつけるべき点はあったろうけど、それが何かは分からない。誰も分からない。

では僕は運が悪いのか。多分違う。自分に起きたことは自分で受け入れるしかない。その時点で、また前を向いて(向き直して)生きていく、くらいしかできないのではないか。「体を鍛えていたから」「昔も今もタバコを吸ってないのに」(タバコは一時期吸っていた)というのは言い訳でしかない。すべて今の自分に起きたことなのだ。

はて、ここまで書いて、亡くなった先輩にあまりに申し訳ない気がしてきた。随分昔に亡くなってしまった彼は人生を振り返ったり、家族に言い残す時間など到底許されなかっただろう。亡くなった状況はどんなだったろうか。家族はどう受け止めたのだろうか。

(写真は2021年2月3日、東京・三田病院で撮影。4枚のMRI画像が並べられている。主治医から許可をもらって撮影した。赤字は後から追加。赤丸中央の黒い影がお分かりだろうか。11月(右下)に影の下部に脳腫瘍の白片が見え、12月(左下)に少し濃くなっている。この時点では「まぁ今の時点では手術痕と診断されるかもしれませんねえ」と主治医。ところが今年1月(右上)には白片がなくなり、2月3日(左上)には綺麗になった。濃淡の差はあるが、どれも最も濃くなる箇所からの撮影。続く。)