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児相2日目。「空っぽの茶碗」

 子どもたちがご飯を頬張る姿をみていて、なんだか幸せになる。その姿だけで安心する。生きるために、夢中で食べ物を口に入れるあの時だけはきっと、嫌なことも忘れているに違いない。「苦手……」そう言っていた白いご飯をなにもかけずに残さず食べてから、僕にそのお茶碗の中身をみせてくれた。満面の笑みと一緒に、空っぽになったお茶碗がそこにあった。

水をごクリと飲み干す。

未就学の子が僕の腕に身体を寄せた。僕に会ってから1時間も経たないのになんだか自然と僕の腕にくっついていて、心の音を聴くかのように顔を腕につける。それまでお兄ちゃんにべたりとついていたのに、ここではお兄ちゃんしか頼ることができないのに、少しだけお兄ちゃんから冒険して僕のところに来てくれた。

僕も自然と身体を寄せる。

この世をまだ何年かしか感じていない中で、お兄ちゃんと2人で僕に出会った。きっと初めて会った知らない人なんかとお風呂に入りたくもないだろうし、一緒に寝ることすら嫌なはずなのに、僕の前で生きることを証明してくれているかのように勇敢に服を脱ぎシャワーを浴びた。最初は嫌がっていたのにカッコいいじゃんか。甘えながらも勇ましく生きようとする姿は、いつまでも見習わなきゃって思う。

髪を乾かした後、僕の手の中で眠りについた。きっと疲れていたんだよね。体も心も。なにもかも。

今日も終わり、もう少しで明日が訪れる。

いろんな事情があって子どもたちはここを訪れる。その詳しい事情はわからないけど、社会にふり合わされた子どもたちはなにも悪くないし、むしろ大人と呼ばれる人たちよりも立派に生きようとしている気がする。

子どもたちはまだまだ1人で生きていくことができないから社会のルールに身を投げ出し、それに合わせることを無理矢理するけれど、無理矢理それをすればするほど本来の自分との相違に苦しんでしまう。大人になると、お金を稼いで1人で生きていけるようになるから、元々の”だらしなさ”が現れるんだ。

だからこそきっと、子どもたちのほうが立派に見えるんだよね。

何度繰り返しても後悔できない二日酔いとか、自分を保つためにつく嘘とか、お金のために取り繕う笑顔とか、すげーダサいよね。大人ってさ。

子どもたちとの間には垣根なんかない。”大人”と呼ばれる歳だったとしても偉くもなんともないし、立派でもなんでもないから、今日は子どもたちにあだ名をつけてもらった。「先生」なんて硬っ苦しくて僕には似合わないから。

カッコダサいあだ名をつけてくれたけど、僕はそのカッコダサいあだ名のほうが好きだ。

今日という日が、子どもたちのいつかの何かの糧になってたら嬉しいなと思う。そして僕も、子どもたちの笑った顔を、いつ終わるかわからない人生の糧にさせてもらうんだ。





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