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◆小説◆ トイレのドアをノックする

2400字。10分くらいで読めると思います。

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とあるビジネスマナーによると、ドアをノックする回数には決まりがあるらしい。
部屋の中にいるのが親しい相手なら3回。
オフィシャルな相手なら4回。
トイレのドアは2回。

それはさておき、俺はトイレのドアは3回ノックするクセがある。
コンコンコン、と矢継ぎ早に3回。1拍待って、ドアノブに手をかける。
子どもの頃にそうしつけられたためだろうか、どんな時でもトイレのドアをノックしている。

「ちょっとぉ、やめな?」
柴田さんの声に、俺はきょとんと彼女を見返した。
クッションに凭れるように座っている彼女の表情は、からかい混じりのような、ちょっと気持ち悪そうな、そんな微妙な笑み。
俺の住んでいるアパートは1DKで、部屋とキッチン、浴室、トイレといった標準的な一人暮らしの家だと思う。
室内には俺と柴田さんしかいないわけだから、当然、トイレの中には誰もいないはずだ。
「それノックの意味ねぇし、なんかこう、変だよ」
もにょもにょと文句を連ねる彼女に鼻で笑って返し、用を足すためにトイレへ入った。

柴田さんは、俺のバイトの先輩にあたる。
大手チェーンのファミレスの仕事を、俺にイチから叩き込んでくれたのはこの人だ。
いつ寝ているのかと思うくらいにいつでも店にいて、ホールからキッチンまで駆けずり回って切り盛りしている。
高校を出てすぐ演劇の養成所に通い始めて、その費用と生活費をバイトで稼ぎ出しているようだ。
大学の合間にバイトをしている俺にとっては、自由人のように見える彼女はどこか浮世離れした存在でもあった。
仕事終わりに帰り道が一緒になることが多く、愚痴を言い合ううちにいつの間にか親しくなっていた。

「なぁ、高橋ぃ。あたしバイトやめよっかなぁ」
トイレから戻ると、もう何十回目になるだろう辞職宣言を聞かせてくれた。
低いテーブルの隅、度数の高いチューハイの缶が潰れてひしゃげているところを見るに、既にひと缶、空けてしまっているらしい。
クッションを抱いてベッドに凭れながら、とろんと眠そうな目をこちらに向けている。
「柴田さん、ここで寝ないで下さいよ。終電に間に合うように送りますから」
「水くせぇーこと言うなよ。ケチケチすんな。まぁ座れ!」
渋々腰を降ろすと、彼女は聞こえよがしに深く長いため息をついた。
「はぁーーーーーーーー……。あたし、もうじき24になるんだ。来月」
「おめでとうございます」
「ちげぇーって! 高橋てめぇ、聞け! あのさぁ……いつまであたし、こうしてんのかなって。
頑張っても頑張っても、どうにもならないことってあるよね? 
なんかねぇ……あたしより後に入ってきたやつが、事務所決まって、オーディションうかったりしてるわけじゃん。
芝居をするにはお金かかるし、やればやるほどお金が無くなってくの。笑っちゃう。
でね、こないだ、結婚式のお誘いが来たわけよ。同級生の。わかる? この気持ち」
「はぁ……」
「はぁ、じゃねぇーんだわ! 
まあ、あたしもその、人並みに結婚に憧れがあったりするわけよ。
そんで、この不安定な生活ぶりを見直さないといけないのかなぁ、なんて……そうなると、芝居なんかできなくなっちゃうんだろうなぁ。
ねぇ、高橋。あたし、結婚できると思う?」
「難しい質問ですね。でもほら、柴田さん黙ってれば美人だし」
「余計ぇーなひとこと多いよね、君は。あぁもう駄目だ。消えてしまいたい。炭酸の抜けたコーラみたいな人生。シュワシュワと消えていくのよあたしは。泡になった人魚姫のように」
「そういうセリフあるんですか?」
「あーもー、帰りたくない! ねぇ、高橋。泊ってっていい……?」
クッションに顎を埋めるようにして、こちらを見上げる潤んだ瞳。
不覚にもドキッとしてしまい、口籠ってしまう。黙ってりゃ、美人なんだよなぁ、本当に。
「ダメですよ。そろそろ出ましょうか。送りますから」
「やーだー、やーだー、もうーっ! ねぇ高橋、帰りたくないの」
「ダダこねんで下さいよ……」
「うぅ、トイレ……」
クッションをぎゅっと抱き締めたまま、柴田さんはのろのろと立ち上がった。
俺はため息まじりに、散らかったチューハイの缶を片付け始める。
コンコンコン、と矢継ぎ早に3回。ノックの音。
振り向くと、トイレのドアの前の柴田さんは、どこか悪戯めいた目をこちらに向け、肩を竦めて笑っている。
1拍おいて、コンコンコン、と中からドアを叩き返すような音。
「え……」
誰もいないはずのトイレ。
彼女が片手に持っていたクッションが、ぽとりと床に落ちる。
表情からすぅっと笑みが消え、ドアノブに手が伸ばされた。
ドアが開くと中から明かりが差して、彼女の横顔が明るく照らされて。
そのまま吸い込まれるように、柴田さんはトイレの中へ入っていった。

「えっ、ちょっ……なに? 柴田さん?」
何かの冗談にしては、不穏な雰囲気。
トイレの前に行き、コンコンコン、とノックする。
返事は無い。
「柴田さん、失礼しますよ……」
ゆっくりとドアを開ける。
電気はついたまま。トイレの中には、誰の姿もなかった。


柴田さんはあの日、ファミレスのバイトを辞めていた。
「なんかねぇ、お芝居の方にも、あんまり行ってなかったみたい。
お金がないってんで、給料の前借りの相談とかされてたけど、なかなかねぇ」
店長からそう聞かされた時、なんとも言えない後悔のような気持ちが、俺の心にのしかかった。
もう少し親身になって話を聞いてもよかったんじゃないか。
泊めてやるかどうかは別としても。

コンコンコン、と矢継ぎ早に3回。
俺は相変わらず、トイレのドアをノックする。
そのうち返事が返ってきて、あの馴れ馴れしい、それでいて憎めない先輩の声が聞こえるかもしれない。
あるいは、いつか俺もそっちに行けるかもしれない。そんな気がして。

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サトウ・レンさんの企画を見て書かせて頂きました。
よいキッカケをありがとうございました。


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