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【ショートショート】カルピスの寝息

あなたはだんだん眠くな〜~る
あなたはどんどん眠くな〜~る

目の前で揺れる五円玉を一心に見つめるフリをしながら、私は迷っていた。

弟の歳三が「さいみんじゅちゅにかけてあげる!」と小走りで和室に駆け込んできた時、私は「夏休みの友」という名の敵に向かって猛然と鉛筆を振るっているところだった。
夏休みはあと二日しか残っていないというのに、ちゃぶ台には手つかずの読書感想文用原稿用紙と、半分弱までしか終わっていない計算ドリル、それからほとんど手つかずの漢字プリントが残っている。
正直、今は弟の遊びに付き合ってやれる暇はないのだ。

と思いつつも、いかにも幼児らしく顔をテカテカ輝かせている弟を見ていると、断るのはあまりにも無情な気がして。
「少しだけね」と言うと、彼は大喜びで握りしめていた右手を開いて、五円玉を結わえた毛糸をほぐした。

そして話は冒頭に戻るのだけれど。
宿題が終わっていないという焦燥感と荒ぶる五円玉の前で、私は困惑していた。
本当はさっさと寝たフリをして弟を喜ばせたのち、速やかに課題に戻る……はずだった。
けれど。
毛糸の先の五円玉が、尋常じゃなく近い。
しかも弟の芝居がかった厳かな声音とは裏腹に、異様に活発にブンブン飛び回っている。
顔に当たったらかなり痛そうで、なかなか無防備に横たわる勇気が出ない。

でも、ここで私が眠らないかぎり宿題は終わらない。
意を決して、「やられた〜〜」と畳に倒れこんだ。イグサの香りを鼻いっぱいに吸い込んで、口から出す。寝息に聞こえるように、細く、長く。
畳がひんやりと気持ちいい。
五円玉が鼻をかすめる気配にひやりとしながら、弟が満足するのを待つ。

しばらくして、ようやく弟の気配が動いた。
よーし!そうだ、それでいい!
そう思った次の瞬間、あろうことか彼は、横向きに寝る私の腹側にぴったりと身を寄せてきた。嘘でしょう?
酸っぱい汗の匂いと、ほかほかの背中。


ほどなく規則的な呼吸が聞こえてきたので、そっと身体を起こしてみた。五円を握ったまま、彼はすやすやとカルピスくさい寝息を立てている。
これ以上動くと起きてしまいそうだったので、私はゆっくりと背中を倒した。

*  *  *

いきなり、すぅと腹に風が吹き込んだ。
おかあさーん!!かかった!お姉ちゃんがさいみんじゅちゅにかかったー!!
とムチムチの足が廊下をバタバタ駆けていく。
顔を見なくても鼻の穴が最大に広がっているであろうことがわかる、得意満面の声だ。
かたや私は、頭がじんと重くてまだ立ち上がれない。
「いや〜催眠術っていうか、歳三の体温がね……」
寝そべったままそう言うと、
「宿題、終わってないんじゃなかったっけ?」
とからかうような母の声が飛んだ。

ああっ、そうだった!
顔を上げると畳から引き離された頬がぺりぺりと鳴って、痛痒い。
窓の外は、すっかりピンク色に染まっていた。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆

以上、ピリカ☆グランプリへの応募作品でした。


お読みいただきありがとうございました😆