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この部屋に暮らして

アパートの更新時期が近づいている!

別に文字を大きくするほどでも、語尾に「」を付けるほどのことでもないのはわかっているのだけれど、なにぶん一つの町に二年間暮らすのは初めてのことなので、妙に興奮してしまう。

正確には来年の三月が更新時期なので、まだ少し先の話ではある。けれど引っ越しを検討するなら、そろそろという時期でもある。
積極的に引っ越したいわけではないけれど、賃貸サイトを漁ったり、特徴的な間取りを一言ツッコミとともにまとめた『間取りの手帖』(佐藤和歌子/リトルモアブックス)を読むのは楽しい。

ここは銭湯が近くていいなぁ。
自転車置き場に屋根が付いているのはありがたいな。
バス、トイレ別でこの賃料か。それはお得かも。

今の家にはないよさを持った部屋を見つけると、わずかに心が躍る。そこで暮らす「今よりも素敵な自分」を妄想して、ニヤニヤしてしまう。けれど、なんだかんだ今の部屋が一番のような気もする。
よくよく考えてみても、今の部屋には取り立てて大きな不満がないのだ。

壁や床が薄いことや築年数が古いこと、ユニットバスが詰まりやすいこと、そうめんを茹でるとたまに火災報知器が反応してしまうこと、日差しがきついこと。

無理やり挙げるとこんなところだけれど、特に引っ越す理由になるような決定的な欠点はない。
結局、まだまだここに住むんだろうな。
ひとり納得して賃貸サイトを閉じて、メモ帳アプリを立ち上げる。
これからもこの部屋に住む者として、改めてこのアパートのいいところを書き留めておこうと思ったのだ。

まず挙げられるのは、無料で流行歌が聴ける点だろう。時々私の投稿に登場する我がお隣さんが、時々J-POPを熱唱してくれるのである。
私は彼のおかげで、瑛人もあいみょんもKing Gnuも知った。

ほかの住人とはゴミ置場や駐輪場で挨拶する程度だけれど、みな困ったことがあったら助けてくれるいい人たちだ。

次に挙げたいのは、大家さんがマメかつ異様なまでに腰の低い人たちであるという点だ。
私たちのアパートと大家さんの家は車で20分ほどの距離がある。
にもかかわらず、大家さん夫婦はかなり頻繁にアパートのメンテナンスに来てくれる。

節分からしばらく経ったある日のこと。図書館にでも行こうと外に出たら大家のおじさんが必死に二輪車置き場に落ちた鳩のフンを削り落とそうとしていた。
「こういうの、気になりますよね。ごめんなさいね」
そうしきりに謝りながらガリガリとスコップでフンを削り、持参したらしいペットボトルの水で流す。
「あまり気にならないですよ。犬や猫のフンならまだしも、鳩ですし」
そう答えながら、内心冷や汗ダラダラだった。
ここに鳩を呼び込んだ犯人は、私だからだ。

大家さんが来る数日前、節分後に半額に値下がった福豆を食べながらぶらぶらと散歩をしていた。アパートの前で鍵を出そうと手提げに気を取られていたら、ポロポロと何粒か豆をこぼしてしまった。
すかさず近くにいた鳩が反応して、首を前後に揺すりながら歩いてくる。
重そうな身体に似合わぬちょこちょこした足取りがかわいくて、もう少し豆をこぼしてあげた。
すばやくもう何羽か舞い降りてきて、いそいそと豆をつまみ始める。

さも忙しそうに豆をつつく鳩らをしばらく眺めて、私が部屋に戻った後。きっと彼らは、用まで足していったのだろう。

こういうのを恩を仇で返すっていうんだぞ。
もう家の前で鳩に豆をあげるのはよそうと誓った。

大家さんの人柄を表すエピソードは、もう一つある。かなり暑かった先週の土曜日のことだ。
米を買いに行こうとしたら、大家さん夫婦がアパートの柵のペンキを塗り直していた。
「最近雨が多くて、せっかく一昨年塗り直した柵のペンキが剥げちゃったらみなさんお嫌でしょうから」と汗だらけの顔で笑う。

別にペンキが剥げるくらい、このアパートの人は誰も気にしないだろうに。
それより彼らの足元にペンキとハケしか置かれていないのが気になった。
こんな暑い日に、お茶も飲まずに?
ていうか、いつからやっているんだろう。
とりあえずお茶を飲んでもらおうと部屋に戻ったが、冷蔵庫にはビールしか冷えていなかった。
仕方なく常温のほうじ茶と紙コップを持って、大家さんのところへ駆け戻る。

「いんやぁご心配をかけちゃって申し訳ない!でも本当に大丈夫ですから!」とおじさん。「私たち、あんまり汗かかない体質ですし」とおばさん。
……汗をかかない人の方が熱中症になりやすいんじゃなかったっけ?

うろ覚えの知識ではあるけれど、とにかく水分補給は大切だ。
かなりしつこく勧めたら「じゃあお言葉に甘えて……」としぶしぶお茶とコップを受け取り、なぜか200円を渡そうとしてきた。

「いや、なんですかその200円は」
うっかり受け取りそうになって、慌てて両手を振る。
「私たちは二人ですから」
「いやいや、いりませんって!しかもぬるいし。ペンキのお礼ですから」
「お気遣いいただいたお礼もかねてということで」
「このお茶、ふもとのドラッグストアで63円ですよ?200円もいりません」
「受け取ってもらえないなら、このお茶もいただけません」

申し訳なさそうに眉を下げたままお茶を突っ返そうとする大家さん。
なんでそうなるかなぁ。
まるで「知らない人からお菓子もらっちゃダメよ」という親の教えを守り続けてウン十年みたいな頑なさだ。

結局、根負けして200円もらった。
不本意ながら、わらしべ長者になってしまった。
今後の長者的展開としては、この200円を何かに替えてまた誰かに施すのが順当だろう。
とりあえず、パピコを二袋買った。戻った時に大家さんたちがまだ作業していたら、今度こそスマートに渡そうと思ったのだ。
アパートに帰ると、片づけに入っている大家さんたちが目に入った。こちらに気づいた二人は慌てた様子でぺこぺことお辞儀をし、そのまま車に乗って走り去ってしまった。
もしかしたらアイスの存在に勘づいていたのかもしれない。
結局パピコは、今も私の冷凍庫にある。

かように我がアパートの大家さんたちは気の使い方が尋常ではないけれど、いい人たちには違いない。


銭湯が遠かろうと、自転車置き場に屋根がなかろうと、バス、トイレが一緒であろうと。

この不思議な二人が大家さんであるかぎり、私はなかなか引っ越しには踏み切れないような気がしている。

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ますます大きくなった同居菜。


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ramさんのご紹介で知った、メディアパルさんの企画に参加させていただきます。


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