2024年



2024年

かくしてこのnoteの存在を思い出し、閑暇に書き留むことにした。忽ち脳裏に浮かぶ出来事、それはロンドンに住みしばし、時折ベランダに訪れる猫たちの姿である。灰色の毛並みと緑に輝く瞳、夕闇に座して街を凝視する猫の姿が、僕の心に深い印象を刻んだ。
或る日、その猫が姿を消す。巧みにして「良き飼い主に拾われたことだろう」と思い、軽い心でその出来事を忘れていった。

と、久々の日本語なんで、文章をちょい昔風に書いてみた

数日後、ロンドンの大学より帰ると、新たな猫がそこに居た。
黒い毛並みと丸い瞳を有し、前の猫と同じく何を為そうともせず、ただ座って街を眺めていた。その時、僕は猫たちが何を考え、何を観察しているのかという奇妙な好奇心に駆られた。
『人間!いたのか!』と驚いて逃げてしまうかもしれない事も想定して、少し勇気をもって声をかけてみると、僕の存在を前から認知してるかのように、何も動じずこちらを一瞥してから、また街の方に顔を向ける。。

夕焼けでオレンジかかった街並みにネオンの明かりが点滅し、人々が行き交っていた。目線の先を追いかけながら「何かあるの?」と再度質問すると、『にゃー』と返される。
未知なる国の生活に焦りばかりで心はいっぱいだった。そんな僕に「これがこの国さ。ようこそ」と言ってるわけではないだろうが、猫がただ街を見つめているように、僕もただ窓から外の風景を眺めてみた。
そこには、僕が思い描いていた未来が広がっていた。

ロンドンの大学から離れ、スペインで今は暮らしている。
窓から見た景色は、いつも変わらず未来への歩みを感じさせる。シェアハウスを出て、異なる国で新たな生活を始めても、余裕をもって街を眺めることができている。

思えば遠くに来た。

あの猫との出会い。
あの猫たちがベランダに来ていなければ、僕の在り方はあり得なかったかもしれない。異国でのコロナの孤独に打ち勝てなかったこともあるだろう。だからこそ、今でもあの猫たちを思い出すのだ。

今は一緒に歩んでくれるパートナーがいる。
ロンドンの大学で初めて彼女の作品を見て衝撃が走ってから、なんだかんだで仕事的なパートナーとしてスペインに一緒に渡るも、天才的な彼女の感性にどうしようもなく今も変わらず魅了されてしまうわけで。

「ヘーゲルの歴史観」と「ノイマンの永遠回帰」の違いからくる建築の歴史。そんな話を時にふっかけてくるわけで、僕も知識をふりしぼってディベートをしたりもする。時に雪山にスノボーにいっては、夜あたり一面の星空を見ながら、星座の話や宇宙の話をしたりもする。日本における星座の物語を教えたり、フランスの物語を教えてもらったりしながら。
未知の街に出会えば、2人乗りで自転車に乗ってでかけては、素敵な建物を発見し合ったりもする。

あの猫に出会ってなかったら、今は日本にかえって建築事務所に就職し、あくせくと働く毎日を過ごしていたかもしれない。
一緒になって建築物を眺めたり、同じ熱量で語り合ったり、知識を与えたり与えてもらったり、これほど信頼し合える人に一生出会えなかったかもしれない。

苦手なこと

恋愛に関しては疎く苦手にしてきて、好意をもってくれてる事を感じることはあっても、あまり応えないようにしてきた。
僕は内臓の一部分に疾患を持っているので、長く生きれても40代後半がせいぜいだという。
色々な国を行き来する生活でもあり、こんな人間を好きになられても、相手には不幸しか待っていないとも思っていた。

恋愛も遠ざけペットも飼わず、なるべく孤独に自分の未来に向かって歩いていく道を選んできたけども、ここに来てそれをぶっ壊してくれた人に出会う。
ハイデガーの現象学を持ち出して、「あなたも私も、過去、現在、未来と生きてるのは一瞬なの。その一瞬が尊いの」と。「私よりもあなたが先に死んだとして、私は100歳まで生きる予定だから、あなたがその半分だとしても、一緒に生きていた時間は現在でも未来でもあるの。それくらい分からない?」と。

未来の自由に重きを置いたとして、その未来において自己選択に責任を持たなければ、そんな未来は開かれた可能性として存在するはずがない。
「何を君はせまっ苦しい考えに縛られ、自ら手かせ足かせ嵌めて身動きとれないような選択をしとるんだ!」と、お叱りを受けたわけで。。。💦
人の想いに対して、枷をはめた考えを持って反してしまう事の愚かさを、30になって改めて教えてもらう。

僕が猫に出会って今があるのも、あれから数年と長い時間に感じるが、ほんの一瞬のできごと。その一瞬が僕にとって、とてつもなく尊いモノとして感じるわけで。
そして、この尊いモノとして感じる感覚は、そのうち忘れいずれ思い出すものだという事も、今はなんとなく分かるようになった。

ファンになった人。好きで夢中になったもの。今はそれらを忘れて生活をしてる事もあるが、またそのうちふとした瞬間に思い出す事も必ずあるんだろう。好きと思っていた匂いや景色なんかと一緒に思い出し、また作品とか見たり聴いたりするんだろう。
「こういう感覚がノイマンの永遠回帰なんだろうか?」と少し分かったようにも思えるわけで。

「ずっと好き」というのは、常に同じ熱量を持ち続ける事ではなく、現在や過去を大切にしてれば、未来でもちゃんと思い出せるという話であり、そんな事をなんとなく猫を思い出した事で、改めて感じたわけであり。

日々新た


2023年の僕は、色々また勉強になったし、改めて人間的に未熟だらけという事も知ることができた。
「結婚」という価値観は皆無に近かったが、概念として植え付けられていた「結婚像」を取っ払ってみて、自分達の結婚というシステム的な観点で考えてみると、新しい可能性が生まれてきたわけで。

常に一緒、常に同じ熱量、なんてあり得るわけがない。
寝室が一緒とか、個室が無いとか、そんなの僕にとってはあり得ない生活だし、パートナーさんも同じ事を言っている。
ので、結婚したからといって、無理にそんな事を目指さなくてもいいし、急に僕の心臓が止まったとして「残された人の事を思えば」なんて事も、信頼できる人と今をしっかり責任を持って生きていれば、「そんな事を決断の理由にしなくていいんだ」という価値観も自分の中で新たに生まれる。

責任を持って二人の時間を過ごしていれば、ちゃんと思い出してくれる。逆に僕もちゃんと思い出す。そんな関係でいれば、そこに「結婚という概念は別に必要無いんじゃないかな?」なんて今は話し合って結論が出たけど、先はまだ分からない。
ただ分かっているのは、「あなたも私も恋愛第一でなく、作品を作ったり研究をしてる時間の方が好きよね」という事だ。
ほんとここまで同じ感覚の人と、異国で出会うなんて思ってもいなかった。
計画をたてて日本を飛び出してきたが、まさかこんな計画とは違う事が起こるとは思いもしなかったけど、めちゃくちゃ面白くともおもえるわけで。

もっとも大好きな作品作りという時間の中で、爺ちゃんとの約束からたてた計画の中で、人を好きになるってのはこの人で最後なんだろう、ということも分かった2023年。
未来に向かって大切な年として、また一つ積み重ねる事ができました。

お幸せに


2024年になって日本では結婚報告ラッシュという話を聞く。
僕がファンだった人も結婚報告をしたこともしる。

たくさん作品とかで楽しませていただいたので、ただただ「おめでとうございます」しかない。多くの人を幸せな気持ちにさせてくれたのだから、ファンだった者からすれば「末永く幸せになっていただきたい」のみなので、僕の家での子守唄だった詩

いずこよりきたるか、花の香り近く
旅人の胸、感謝に満ちて
しばし歩みをとめ、帽をとりて
はだに天より祝福をおくる

を送ったところで、このへんで。

と書き終わったところで、能登半島の地震のはなしを知りました。
金沢は日本で一番好きな街で、お世話になった事もたくさんあるわけで。

心配ですが、今は自分のできる事として、精いっぱいの寄付をさせていただきます。
いずれまた、何か力になれる事があれば全力で。






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