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rambling talk

・孤


EURO圏も色々状況が深刻化してきたので、自分達の意志で片一方は家族の元で支え合いを選び、片一方は部屋で一人を選ぶ。どっちの選択も最善だと僕は思ってるのでそれは良いが、しかし海外で部屋からあまり出られずの一人は結構キツイものがあると、それは少し想定外だった。

海外での一人暮らしの経験も長いので、自分の中に寂しいと思う気持ちが湧くとは思ってもみなかった。街に出て馴染みのカフェとかに行くこともままならず、好きな読書も、今は余計な雑念がはいってくるので、まったく文字が入ってこない。APEXとかオンラインゲームで時間を潰すにも、なんか気が乗らず、すぐに飽きてしまう。倦怠感みたいなダルさがやる気を削ぎ、無気力になりかけもして、日本に逃げ帰るなんて事も頭をよぎる。

何が自分に起こってるのかは、後から考えれば単純な話で、趣味に没頭するにも、核がしっかり存在してるからこそであって、趣味は核にはなれない。バカンスなんてのも、先の仕事が存在するから休みを楽しめるのであって、仕事が無い状況で休みなどは楽しめないのと同じなんだろう。そう思うと、解決は簡単で、仕事に今は没頭すればいいと。

出勤も出来ず減っていた仕事に対して、オンラインで事務所から与えられる仕事の量を増やしてもらい、また調べなければいけない資料の量も、先3か月分を一斉に送ってもらう。それらにとにかく時間をあてる。そうすると、今は仕事の合間に映画を見たりゲームをしたりと、いつもの自分のペースを取り戻せた。僕にとっては、仕事あっての趣味だという事を再確認。

静かで外に出られない環境の方が、頭の中での一人脳内会話が弾む。海に潜った時も同じで、あまりにも静かな光が届く層の深青い世界に入ると、綺麗な魚やサンゴの世界に酔いしれると同時に、日常であまり感じない死の恐怖もどこかしら感じるわけで。「サメが来たらどうしよう」「毒を持つ魚に触れ痺れて一人動けなくなったら?」などなど、日常ではまず感じない余計な事を頭の中で会話し感じたりもするが、その状況にちょっと似てたのかもしれない。

本の著者が語り掛けてくる声を、脳内の自分の声が遮るのだから、どこかしらやってくる自分の存在が少し邪魔に思うなんてのも久々でもあった。自分の存在が疎ましく思うのと同時に、自分の存在が今の状況を抜け出すヒントもくれるわけで、脳内会話もすべてが悪い事では無いと思う。ただ、読書の邪魔だけはさすがに困ったが。。。

友達がオンラインワークの環境に変わり「軽い鬱になった」と言っていたが、これは当然起こっても仕方ないのだろう。それくらい難しい環境に陥れられるのも、独りとの付き合い方を学ぶには、他人でなく自分と上手く会話出来ないといけないのだから。僕は10代の頃に、嫌というほど自分と会話したし、その会話した存在が自分の中にしっかり今も生きてる事を知ってるので、助かったのかもしれない。

・オンラインワーク

仕事は、担当者とZOOMでのやりとりをしながら、メールなどで資料を受け取り、そこから作業部屋に入りドローイングに入る。ドローインもPCメイン。本当なら手描きが好きなんだが、こればかりは仕方ない。

データを送ったり送ってもらったりしながら作業を進め、メインの事務所以外は、個人でやってるプロジェクトチームの担当からの内容を聞いたり、今は多くて3つぐらいのチームを同時進行で作業を進める。大学時代に知り合ったメンバーとのチームが多く、そこから徐々に広がりを感じるのも嬉しいけど、コロナが無かったら、もう少し早く広められたとも思う。そこは残念だが、人間なので「なるようにしかならない」ってな感覚も持ち合わせていないと、とてもモタナイって事もわかっている。今は「焦りは禁物」が僕の中で金言だ。

オンライン会議してると、メンバーの一人から「もっと君もSNSやyoutubeで名前を売ればいいのに」と言われるが、一貫してそこは''NO`’な姿勢は変わらない。今はフランスにいる人も同じ感覚で、名前を売れたとしてそこから先の作品が名前先行で評価されたとすれば、生まれる作品の価値が見出し辛くなるという部分。これは師匠からの教えでもあるけど。勿論名前を売るって事は大切だし、才能だと思う。凄い事だと思う一方で、僕にはその才能が無いって事もわかっている。

名前を売る為に奔走するよりも、自分に出来る範囲の事に集中したい。名作を生んだ名無しの建築家なんてたくさんいるし、名前は記さずに屋根裏の隅っこに、自分の道具を隠していたなんて人も大勢いる。彼/彼女等がなぜそうしたのか理由は人それぞれだろうけど、なんとなくな自分なりの解釈でしかないが、名無しの建築家さん達の想いと重ねてる部分もあるんだろう。

「T」という偽名で作品を出したとして、次に「N」という偽名で作品を出し、周囲から「Tを真似た感じがあり、独創性が無い」なんて評価を受ける事を面白いと思ってる自分がいるので、チームのオフィシャル活動に奔走してくれる人には申し訳ないが、これからも自分に出来る事として、創作に集中させてもらおうと思っている。

こういう感覚に共感してくれる人なんて出会ったこと無かったから、僕一人だけの感覚だと思っていた。でも、フランスに同じ考えの人がいる事を知って驚いた。何か普通と違う出会いを肌で感じたのかもしれないからか、その人が向けるカメラには、自然と笑顔を目線合わせて向ける自分がいる。友達が聞いたら信じられないだろう、それくらいカメラに顔を向けられなかったのだから。

海外で、日本の文化とまったく違う環境で育った人と同じ価値観を抱く。研究や作業してる時ほど表情豊かで、普段の方が表情が少ない人。その少ない表情の中で、たまに見せる笑顔に信頼を感じる。だから無意識でも信頼してるから、カメラに顔を向けるのかもしれない。

・魚

オンラインワークの環境にも慣れ、少し部屋から出れる様になってきた頃、新しい趣味をついに見つけてしまい、その趣味がゲーム、映画、読書を追いやるくらい、今は僕の中でどんどん大きくなっている。
魚料理である。
とにかく魚を3枚におろす技術を高めて、煮つけやフライや空揚げにして食べる毎日。めちゃくちゃ楽しいのである。

日本のレシピ以外にも、フランスのマダムから「ポワレ」という魚を使ったフランスの家庭料理を教わり、それも大分コツがわかってきた。

普通ポワレは肉/魚とあるけど、肉はアロゼするが、魚は臭みが移ってしまうので「しちゃ駄目」と言われてる。でも、バターを使うと魚にもアロゼするって事を知ってそれを試してみたら、思った以上に美味かった。「こんな魚料理もあるのか」と、新しい事に興味を持ち、知らなかった知識を目の前にすると、なんか今でもワクワクした気持ちになる。

年齢とか関係なく、発見する事にワクワクしてる素敵な人を海外に出て大勢見てきたので、僕も年齢関係なくそうなっていきたいと思えば、やっぱり知らない事にチャレンジするって事の大切さを改めて感じるわけで。

魚料理は、包丁を斜めに入れる角度、力加減などなど、魚によって色々違ってくるので、これが奥が深い。血合いをとったりするのも、繊細な包丁さばきが必要になる。固い骨や切りやすい骨と違いもあり、その時によって包丁を使い分ける。

「簡単に骨が切れる!」なんて思わぬ喜びもあれば、「全然切れない!固すぎだろこれ」と汗だくになりながら、なんとか魚の頭を切り落とすなんて事もあり。皮引きなんてのも、簡単にシャッと剥けた時の全身駆け巡る快感があれば、全然剥けずグチャグチャになった時には、茫然と立ち尽くし喪失感に包まれる。そんなこんなで、一喜一憂しながら仕事終わりに魚料理に向かう日々が今は凄く大切な時間になっている。

魚料理は、ちょっと建築に似ている気がする。一筋縄ではいかなくて、魚への知識をちゃんと身につけないと、魚料理の奥深さの世界にはなかなか入っていけない。だから今は、色んな種類の魚を3枚にもっと上手におろせる様になる事を目指す。世界中どんな魚でも、パッと三枚におろしてさっと焼き上げて食すのが目標。せっかく海が綺麗な青い地球に生まれて、こんだけ魅力的な魚が世界中にいるのに、その魚に興味を持ってこなかった自分が、今では不思議でしょうがないぐらい夢中にさせてくれているわけで。

和洋中と魚料理も様々な手法があり、どの手法も勉強のしがいもある。発見だらけで新しい知識に出会えるし、繊細で難しいけど楽しい。

ポワレが得意料理に増えたが、自粛期間中に魚料理にはまるなんて、予想もしてなかった。これもそれも、一人に対して色々耐えて堪えて踏ん張ってきた過去があるからこそなんだろう。「諦めなくて良かった」と、自分の中にいるだろうかつての10代の自分に、少し褒めてみるのも自粛期間中には良いのかもしれない。自分と会話するってな事も、こんな時じゃないとあまりしないだろうし。

「未熟な自分らしい孤独との付き合いだったな」と今思えば、そういう経験があるからこそ、こうして海外で一人部屋の中にいても、魚料理を本格的に目指したりする自分がいる。孤独の本質を見ようとせず、誰かと同調する事に自然と慣れる方が自分にとって怖い事。そう思うのも、爺ちゃんや教授や師匠が「孤独に進めよ」と教えてくれた事が大きいのだろう。

五木寛之さんの「孤独のすすめ」じゃないが、孤立でなく孤独の感覚。それをしっかり意識してれば、この状況もいつだって乗り越えられると思っている。魚の三枚おろしに磨きをかけながら、魚料理のレパートリーを増やして、コロナが明ければ大好きな人たちに振舞うと。

先を見すえて、今は準備をする期間。なんでもいいので、何か準備してたら、それが必ず生きてくる。そんな事を感じてると、海外で一人ペットもいない部屋の中にいても、同じ毎日の様で、違う明日がやってくる。

あきらめない。
諦めるは「明らめる」ともいい、明らかにするという事でもあるという。何に対して諦めるのかを明らかにする。明らかにするために、諦めがつくまで何かに集中してれば、いつかそれが明らかになって、また次に進めるんじゃないかな。それは研究でもいいし、趣味でもいいし、仕事でもいいんだろう。没頭してれば、いつの日か明らかになると思っている。

・エヴァ

違う明日といえば、「シン・エヴァ」を見る。エヴァの世界はエヴァの中にいる人だけの物語だったが、エヴァの世界で日常を暮らす人たちの姿を、シン・エヴァではしっかり見せてくれた。

エヴァに関わる人達よりも、日常を強く生きる大人になっていた同級生達。日常を描くって、非日常を描くよりも難しい事だと思うが、ラストのエヴァの世界で、しっかり日常を見せてくれた事になんだか嬉しくもなり。

ミサトさんとシンジの「いってきます」「いってらっしゃい」の会話にもグッときた。これまでの「ただいま」「おかえりなさい」のどこか寂し気な表情でなく、明日に向かった力強い表情の二人に、この物語のラストが近づいてる事を予感させられたが、そこに寂しさはなどは無く。

エヴァといえば「レイ派」「アスカ派」の争いの歴史もあるわけで、その終止符もしっかり打ってくれたと思っている。「マリ」という漫画を読んでいれば分る存在が出てきて、最後シンジと一緒にエヴァの無い現実の世界へと向かっていく。シンジがマリに対し言うキザな台詞も、「あのシンジが、こんな事も言える様になったのか」と思わせたが、多分レイやアスカのどちらかを最後の相手に選択すれば、庵野監督もこんなシンジの台詞は出てこなかったんじゃないかな。

「エヴァを終わらす」というこの作品で、しっかり終わらせるには、この選択が良かったと思うし、シンジのATフィールドが無くなった事が分り嬉しくもなった。レイもアスカも現実社会を生きるとすれば、シンジの横(エヴァの繋がり)では無いという事なんだろう、と自分なりにもしっくり来たラストだった。

ただ僕はレイ派であったので、やはりレイに注目していたが、黒レイさんにはやられた。テーブルの上の梅干し瓶の横で、顔半分出しながらの上目使いなアングル。子供みたいに無邪気に知識を得ようとするレイを映したかったかもしれないが、しかしである。天才!としか言いようがないこのアングルには参った。

最後の最後で、また違ったレイの魅力を見せてくれた事に感謝しかない。子供の様に無邪気に知識を追い求める黒レイさんがいて、シンジの横でなく、違う生きる場所を見つけるなんて、レイのこんなラストを見られると思ってなかった。「人間」として生きる場所を見つけられたレイが見られて、もう感無量でしかない。ありがとう、お疲れ様でした。

・rambling talk

タイトルのrambling talkも、エヴァの話で出し尽くした感。一気にこのnoteを書いてるわけで、フランスから帰ってきての一人自粛期間中に感じた事など、少し振り返ってまとめたいと思い書いてみた。

自分語りは常に自分の中で変容するので、普遍的な答えを出すなんてことでなく、今の自分を見出すキッカケになると思ってる。そういったものを昔から「日記」で行ってきたけど、日記はもう少し感情も含まれるので、他人に見せるものでない代物だ。

このnoteはもちろん拡散など目的に無いので、誰宛てでなく独り語りだが、しかし「ネットは誰が見てるか分からない」という感覚を合わせて書くようにすると、また違った自分への発見もあり。

日記もnoteも基本的に一気書きで、建築とは違って、設計前の「入念な準備」が無い。全く真逆な行為ともいえ、これが僕の中では、凄く新鮮でもある。新鮮と思えるうちは、多分またどこかで書くのかもしれないが、毎度毎度それは自分の中でも分からない。なぜこの全く自分の中で価値観の無いnoteなんてものをいまだに書いてるのか、理由さえ分からないのだから。


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