無常を見る感じ「師の役割り」

私には特定の師はいないため、これは個人的な感想であるが、無常を見るとはどのような感じなのかを、記してみたい。

私が「無常」を初めてはっきりと見たのは、瞑想を始めて1年半くらい経ったころだっただろうか。
とはいえ、10日間瞑想リトリートの2回目で、途中瞑想も中断していて、私としてはすんなりとそうなったので、それが特別なことだとも思っていなかった。

瞑想をしていると、スイッチをパチっと切り替えたように、感覚が変わる。
そのとき、全体がなにか満たされるような安心感を感じ、全てが光に包まれる。
身体の中に入ったように、まるで水に潜ったように周囲が遠のくように感じる。
入る前は表面的な感じだったのが、中にはいると内と外の感じが無くなる。
そして、その光はハッキリと見えていて、水蒸気の中にいるようにシューっと振動するように感じる。
しばらくすると、もう一段階中にグンッと入っていき、さらに微細に、高速に、軽く感じた。

これは、おそらく「生滅智」という智慧の段階で、生成と消滅と光明(ヴィパッサナー汚染)を見ているのだろう。
そして、「サマーパティ」もしくは、「刹那定(カニカ・サマーディ)」であるとも考えられる。

ちなみに、瞑想中の光についてはここで考察している。

瞑想の話はあまり人としなかったため、特に自分の体験を話すこともなく、そういうことも起こるんだと、気にしていなかった。

しかし、一方で、無常を見るとはどういうことだろうかとずっと疑問には感じていた。
なぜなら、仏教の解説では、1秒間に数え切れないほど高速に生成消滅をするとあり、なにかとても難しいことのように聞かされていたからだ。

確かに振り返ってみれば、無常と呼んでもいい現象だった。
しかし、無常はそれ自体が「無常」なのではなく、捉え方によるのではないだろうか。
また、無常に気づいているなにかはあるのだ。それは主体と客体ほど分離があるわけでもない。それ自体がそうであっても、連続性を捉えられるということは、それは無常であるとは言えないのだ。
そうして、私は瞑想の体験をずっと保留し続けた。

ここに師の役割りについて考えてみたい。
師の役割りとは、弟子に無常を見せることではなく、弟子が無常を見ているときに「それが無常だ」と示すことにあるのだろう。
弟子を悟らせるのではなく、弟子が悟ったときに、「それが悟りだ」と知らしめること。
さらには、例えばここでの「光」は汚染である、つまり執着となるということも注意しなければいけない。

師は弟子の準備が整ったときに現れる。

それはまさに、指し示してくれる人であって、代わりに準備を整えてくれる人でも、悟らせてくれる人ではない。

誰かとの出会いによって変容するということはなく、変容するタイミングで、ちょうどその人と出会ったのだ。感謝はするが、依存はしない。

アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。

向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。

この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


「ブッダの最後の旅-大パリニッバーナ経」

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