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私のIときみのきみと

私の中には2人の私がいる。「そうですね」「すみません」「なるほど」と主語のない同意でやり過ごす私と、「I think so」「I'm sorry」「I see」とたどたどしくも自己を開示する私。ひとたび英語を口にすれば、世界はいつだって自分を中心に回りだす。

少しも日本語を介在させずに思考し、コミュニケーションできたなら。この国で鈍くなってしまった感情や意志や欲望を、自然に回復できるのではないか。大学を卒業してから英語とはすっかり縁遠くなってしまったが、単身海外へ飛び出した人がやりたいことを取り戻しながら生活している番組を見ると、テレビの前から離れられなくなる。”私”を押し殺してばかりの自分とさよならできる場所が存在することを、定期的に確認しては安堵している。


グレゴリー・ケズナジャット「鴨川ランナー」(『鴨川ランナー』講談社)には、日本語を習得していく青年の内面が、”きみ”という二人称で丁寧に描かれている。高校の外国語科目のひとつとして現れた馴染みのない形象は、主人公の理解をするりと逃れていく。未知の言語の中で生きる人々の世界はどういうものか。想像を掻き立てられた彼は、夏の京都を訪れる。知らない標識、知らない建物、知らない店の知らない商品を知らないモデルが広告する読めない文字のポスター。そして、祇園祭の幻想に包まれた御伽噺の中のような四条大橋。自分とは無関係に動く世界の存在に彼はますます日本語にのめり込んでいく。


別の人になって、別の言葉で喋って、ただ作られた人格に流されたまま言葉を発する。きみは何となく母語で喋るときよりも、一層強くなったように感じる。まるでこの言語が鎧になってくれるようだ。(p.18)


日本語と英語の違いはあれど、新たな言語を取り込むことで得られる感覚はきっと共通だ。

ひとつひとつの描写をたどりながら、私は英語漬けの大学時代を思い出す。洋画や洋楽が好きなわけでもなく、パスポートすら持っていない。周りの学生より発音もなってないし、言葉にするまで時間がかかる。それでも英語を話すときは、自己と意思をはっきりと持った人間になれた気がして嬉しかった。

先生や留学した友人のエピソードの断片を掻き集め、隠れた一面を解放する自分を思い描く。知らない世界を覗いてみたい。そこに触れた自分がどう変わるのか確かめてみたい。欲望と好奇心が、唇から溢れるアクセントとともに鼓動する。


大学を卒業した主人公は、公立中学校の英語指導助手として京都で暮らし始める。看板の文字も読めなかった高校生の頃とは違う。今度こそ部外者ではなく、街と人々に溶け込み、理解できなかった世界を眺めることができるかもしれない。

念願の生活に意気込んでいた彼だが、街を歩けば観光客と思われて英語で声を掛けられる。日本語で挨拶してみれば呆然とされる。生の日本語を学びたくて来たはずなのに、教科書の外側にある”日常のことば”はちっとも向けられない。どれだけ勉強して日本語をマスターしても、外見が壁となり、自分が異質な存在だと突きつけられる。

ならばと国際交流会に参加する。今度は英語を学びたい人たちから質問攻めを浴び、ひとりの人間としてではなく憧れの象徴として扱われてしまう。

だが、彼を突き動かしてきたものもまた憧れだ。閉じられた土地で育まれた独自の文化、神秘的な光景、海の向こうに生きる美しい人々。抱いていた理想は日に日に現実との間にズレを重ねていく。

ここは御伽噺の世界ではないかもしれない。そんなものを追っかけたあまり、きみは何かを見失ったのかもしれない。(p.66)


私の憧憬もだれかを傷つけていたのだろうか。液晶の向こう見た自由に自己を発露できる世界は、私の頭の中にしかないのかもしれない、本当は。

この本ははじめから日本語で書かれているけれど、地元の本屋では海外文学の棚に並んでいる。そういう分類だと決まっているのか、それとも作者の名前を見て、なにげなく置いたのか。

無頓着であることも、近づきたいと強く願うことも、薄い膜となって誰かと私を隔ててしまう。


”きみ”という二人称には、完全に同化することのできない世界との微妙な距離感が表れている気がする。“彼”よりも“あなた”よりも親しい、目の前にある”きみ”だけど、”僕”や”私”のようにその中に踏み入ることはできない。語り全体に遠さと揺らぎがにじんでいる。

だが同時に、本の向こうから呼びかけられている心地もする。主人公と同じ経験を味わってはいないし、どちらかといえば彼を幻滅させる側の人間なのに。呼びかけられるほどに薄い膜がゆっくりと溶け、”わたし”の物語になっていく。


主人公にとっての救いもまた小説だ。下鴨神社の古本市の帰り、思い立って谷崎潤一郎の住んでいた家へ。偶然訪れていた文学研究者に促され、中に通してもらう。

このように奥へ招かれて、その中が自分の想像で充たす空白ではなく、固定した現実であるという事実を確かめると、いささか神秘性が失われてしまう。(p.86)

ネガティブな描写のようでいて、それは彼が“中”に踏み込むとはどいうことかを受け入れた瞬間でもあると思う。

知らない、理解できない、届かない。だから想像は掻き立てられる。理想が空白から生まれるなら、時間をかけて体験と記憶で充たしていけばいい。そこから彼は小説を通し、ゆっくりとありのままの日本と向き合い始める。


早まるな。
ペースを維持すること。
目の前にある百メートルに集中すること。(p.97)


本を閉じ、私は電車に揺られ京都へ向かう。三条の丸善で洋書を1冊買って、四条大橋を渡る。休日の昼下がり、カメラを向ける人たちを避けながら、欄干の向こうを眺める。光を受けて流れる鴨川。川床で食事を楽しむ人々。霞む稜線。川縁には今日も変わらずカップルが等間隔で腰を下ろしている。

もう一度、英語を勉強してみようか。

じっとりと纏わりつくような暑さの中で思う。

イギリスは島国で階級差が激しいし、アメリカの自由は恩恵だけでなく競争をももたらす。どこも望むような桃源郷ではないかもしれない。それでも今なら受け入れられる気がする。憧れに浮かされず、地に足をつけゆとりを持って。


◉グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』(講談社)

取り上げた表題作のほか、短編「異言」も収録されています。ぜひ。



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