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Rainbow⑨

恵み②

Rainbow⑨ 恵み②

 「真里、ちょっと寄り道しようっか」千夏は、フロントガラスに向かって話した。
 車は、先ほど通った道を迂回して島の中心部に向かった。
 標高二三〇メートルのバンナ岳を丸ごと整備して公園にした「バンナ公園」内を母娘を乗せた車が走っている。
 螺旋階段を登っているかのようにくねくねと曲がる道を、千夏はハンドルを右に左にと切る。ようやく頂上の一部が見えたとき、真里は車酔いの真っ只中だった。水筒の水で、逆流するものを押し返し押し返しする。それでも千夏は、「この道、車一台分くらいの道幅しかないから、一気に登っちゃうね」と、真里に構うことなくアクセルを踏んだ。
 山頂に着いて車を降りると、真里は近くの草原の茂みで逆流してきたものを吐いた。千夏は、真里の背中を摩りながら、三半規管を鍛えなさいだの、飴を食べたらいいだの、あれこれ言っている。真里はなるべく耳を塞ぎながら、気分が落ち着くのを待った。
 着いたときよりも大分気分が落ち着いたとき、車を止めた場所から柵の向こう側に目をやると、眼前に石垣島の街が広がって見えた。
「すごい」と真里は、初めて見る景色に感嘆の声を発した。千夏は、真里から離れ展望台の方へと歩き出し、振り返った。
「あっちの展望台に登ろっか」千夏が指さしたのは、高台へと繋がるスロープが右傾斜左傾斜と折り重なるように作られた展望台だった。真里は、動くのでさえきつい。と言い張って抵抗してみたが、千夏が一度こうと決めたことが覆ったところを見たことがない。渋々、真里は千夏の後ろに着いて歩いた。
 展望台から一望する市街地やその先に広がるエメラルドの海は、まるでジオラマのように小さく精巧に製作された一つの作品に思えた。
「あれが竹富島」と、千夏は遠くを指差して真里に教えた。真里は海を隔てた先へと目を向けた。パノラマサイズの竹富島がそこにあった。真里は、隣に立つ千夏の横顔を見た。千夏は黙ったまま、竹富島の方角を見ている。真里も黙って千夏と同じ方角を見た。陽は、南の空から西の海へと傾き始めていた。しばらく遠くを眺めていた真里は、ふと、ある異変に気が付いた。千夏の瞳からこぼれ落ちる一粒の雫。真里はこの瞬間、千夏は竹富島よりも遥か先の、……まだ真里にも分からない景色を見ているのだと気付いた。真里は息を呑み込んだ。なぜなら、千夏のその横顔は、母としてではなく、一人の女性としての威厳を保っていたから。――
 微かに残る橙の陽が、遠くの海へと沈んでいく。
 夜はすぐそばまで来ていたが、千夏は遠くを見つめたまま、静かに話し始めた。

 「私、実は昔バレエをしていたの。結構本格的に」
 そう言うと、千夏はパラレルという真っ直ぐした立ち姿から片足のつま先を前に出し軸足に戻し、横、後ろと同じように動かした後、反対の足も同じようにした。白鳥が湖に着水する時のように、両腕を頭上から左右に広げてお腹の前で円を描く。ドゥミ・プリエという動き。真里はウィングキッズの練習や平日のダンス練習でバレエ基本動作を習った。体幹を鍛えていても体のバランスを崩すこともあるその動きを、千夏は、少しもぐらつくことなく美しい所作を見せた。
 真里は、初めて知る母の一面に驚いた。「すごい。――」思わず口から出た言葉に、真里は可笑しさを感じた。なぜなら先程展望台に立ち、町を一望したときに発した言葉と今の言葉が完全に同じ音だけれども、その意図する感情の違いは雲泥の差のように感じたからだ。しかし、真里はやはり「すごい」以外に目の前の母の姿を表現する言葉がないことにもどかしさを感じるのだった。
 千夏は、元の千夏に戻り展望台の手すりの摑まると、続けてこう言った。
「高校三年生のとき、私は自分の夢を自分で断ったの」軽快なステップを踏むように、さらりと発した千夏のその言葉の重みは、真里の脳内で処理しきるまでにほんの少し時間が掛かった。
「……、……。どうして」
「どうしてかな。今となっては『たら、れば』の話ではっきりとした理由が自分でも分からない。だけど、逃げなきゃ私の人生、十八やそこらで終わっていたかもね。それぐらい、追い詰められていた気がする」
「何があったの?」
「自分の脚を、……刺したの」
真里は言葉を失った。……自分の脚を刺すほどの重圧とは何なのか。真里には理解できなかった。いや、真里も含めて。千夏だけにしか感じえないことが起こったのだと推測するしかないだろう。
「お母さん。……」そう言いかけて、真里は言葉を吞み込んだ。これ以上言葉を重ねると、母を過去に縛りつけてしまうではないか。また、こうも思った。母が私の目の前から居なくなってしまうのではないか。……現実的にはあり得ないことだと思いつつも、今この空間を埋め尽くしている非現実的な日常が、真里の脳裡から正気を奪っていた。ここで千夏との適正な距離感を保つことが最優先事項だと、真里はそこに全神経を注いだ。
千夏の表情は、変わらない。気丈なように振る舞っているのか。それとも、今にも震えそうな体をぐっと堪えているのだろうか。真里は、何故だか分からないが、千夏の方へと一歩だけ足を出した。その足がコンクリートの地面に擦れて、乾いた音が鳴った。千夏は真里を見て、両腕を広げた。真里は、千夏のその両腕の中へと飛び込むように入っていった。そこには幼い頃に何度も感じた、いつもの母の温もりが確かにあった。しかし、その体は小刻みに震えていた。真里は自分の腕が母の体を支えていることに気づいた。もうあのころのように、両腕いっぱいに開いても届かなかった母の背中ではないことを、真里は痛切に感じるのであった。
 「大丈夫、大丈夫だから。……」千夏の背中を、真里の手が何度も上下する。真里の胸の方から、消え入りそうな千夏の声が聞こえる。
「……あなたは、私みたいにならないで。――」

 混沌と闇が辺りを包み込む。その中で二つの影だけが、薄弱と姿を証明しようともがいているようだった。

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