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遠き憧れ、刹那の逢瀬

 ずうっと、ずうっと、ずうっと昔から憧れていた。その優しく心地よい話し方に。場面場面で変わる感情をのせた声に。由緒正しい家系に生まれたものだけがもてる、上品な佇まいに。気取らない気さくさに。言うならば生まれながらのジェントルマン。
 貧しい家庭の子だった私とは住む世界が違った。遠くから見ているだけだった。だから14歳の私は、憧れている気持ちさえそっと胸にしまっていた。
 成長とともに生活に追われた私は、現実の生活を過ごすことが精いっぱいで、憧れはいつしか霞んでいった。そして忘れていった。


 人生の折り返しを過ぎて、私にもチャンスがあることを知ってしまった。遠い日の憧れの君に手が届くかも知れない。近づきたい、あわよくばお付き合いしたい! 何もせず後悔したくない!、思った。
 家のこと、お金のこと、自分の調子など気になることは沢山あった。でも、後悔したくないという、その思いを抑えることはできなかった。

 とりあえず一目逢いたい。そう思ってしまったら、すぐにでも逢いたかった。ちょうどコロナ禍の最中、連れ合いは在宅勤務になった。すぐには逢えない、連絡をとることすらできなかった。ジリジリと待ち続けた。
 5月末にやっと非常事態宣言が解除になった。メールアドレスを打つ指ももどかしく、メールを出した。アポは即取れた。

 一日千秋の思いで待ち焦がれた初めての逢瀬。ああ、いよいよと高鳴る胸。自宅から離れた駅で降り、初夏の日差しの中を小走りで指定の場所にむかう。ティーンエイジャーの心で。

 招き入れられた部屋に入り、ぎこちない挨拶をかわす。二人っきり…永い間の思いを告げる。そして、すぐに抱き寄せ、あごを乗せ、体を合わせる。骨っぽく、硬い体。重さを感じる。あれっ、と違和感があった。何かが違う? 何が?
 耳元で聞こえる声。イメージより低い。そして体が馴染まない。 

 あんなに恋焦がれた逢瀬は、違和感を拭えないまま半時で終わった。鏡を見る余裕などなかった。

 15年以上一緒に過ごしたパートナーがいかにしっくりしていたか。私に合っているのは誰かを思い知らされる。すらりとした美しい細身、大きすぎない声、共に過ごした時間の長さと思い出。

 残ったのは左肩の痛みと、きっと虚しさと呼ぶべき感情。どこか冷めた心。
 深入りする前に終わってよかった。

結局、一枚の写真もない。これでいい。これですっぱり忘れられる。

私に新しい扉は開かれなかったけど、これでいい。

 響きも美しい愛しいその名は、ヴァイオリンと言った。

お読みくださりありがとうございます。これからも私独自の言葉を紡いでいきますので、見守ってくださると嬉しいです。 サポートでいただいたお金で花を買って、心の栄養補給をします。