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世界は贈与で出来ている。資本主義の「すきま」を埋める倫理学 近内悠太

1.要約

 本書は、哲学・思想ににおける古典的なテーマである「贈与論」を現代社会を舞台に置き換えて語ったものである。贈与論が語られる時は、モース、レヴィ・ストロース、バタイユ往々にして未開社会について語られ捉えにくい事があるが、本書にそんな心配は無用であり、分かりやすく、読みやすかった。

 資本主義の基本原則は交換である。その交換原則は現代社会を覆い尽くしている。しかし、著者はそんな交換原則一辺倒の現代に疑問を投げかける。以下は、貧困が原因で、母親を殺さざるを得なかった者の発言である。


『他人様に迷惑をかけられない、もう死ぬしかない。』
 



 困ったときに、人は助けを求めようとする。しかし、交換社会において困った時点で既に、交換の対価は持っていないのである。交換の対価があれば、それを差し出せば済むため、そもそも困らないのである。
 交換するものを持たないとき、あるいは、交換することができなくなったとき、人に選択肢はなく、究極的には死しかない。


 『交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくかる』
 Kindle版521頁


 以上の点から交換社会によって生み出される社会の行き詰まりを回避するために、『贈与』が必要と著者は提唱する。
 贈与は簡単ではない。呪いとして機能する。贈与することで、その相手の思考と行動をコントロールしてしまうのだ。相手は贈与の力によってコントロールされ、そのコミュニケーションの場に縛りつけられてしまう。
  
 つまり、先程の貧困親子の例であれば、突然あしながおじさんが表れて、資金的な援助をしたとする。
 もし、交換の論理である。単なる金銭貸借ならば返済すれば、関係性を断つことができるが、贈与であれば金銭+α(親切心等)、モノとモノ以上が、渡されるため、仮に資金的な援助を将来的に返したとしても、+αのモノ以上が残り続けられ、精神的に縛りつけられる、ということである。これが贈与の呪いである。


『贈与というのは危ういものである。名乗れば返礼可能となり交換なり、返礼できない場合は呪いにかかる』


 そこで、差出人の存在しない贈与。ここに本書の目指す贈与論のモデル(純粋贈与)である。サンタクロースにそのヒントがある、と述べる。
 親はサンタクロースである正体を伏せ、返礼できないような状態に身をおく。あくまで「プレゼントだったといつか気づいてくれたらよいな」という節度ある態度を要求する。
 一方で、子は親に対して被贈与の負い目を持ちようがない。また、サンタクロースが実は親と気づいたときには贈与は完了しており、贈与という行為そのものは存在しません。
 つまり、贈与を時間によって二重化させるということである。


『贈与は、差出人にとって受け渡しが未来時制てあり、受取人にとっては受け取りが過去時制になる。贈与は未来にあると同時に過去にある』
 Kindle版1,118頁


 しかし、ずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しない。 だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要がある。


『贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する』
Kindle版1,131頁
 


 つまり、受取人の知性ないし想像力をどうやって鍛えるか、ということが課題となってくる。

 そこでヴィトゲンシュタインの言語ゲーム、クーンの逸脱的思考及び求心的思考を持ち出す。
 クーンの逸脱的思考と求心的思考によって手に入れられる想像力がことなる、という。
 
 ○求心的思考
 ヴィトゲンシュタインの言語ゲームという設定されたボードゲームの上で、想像力を発揮して、アノマリーと呼ばれる、不合理、変則性のコードを、合理的なものとして、解析していく、というものである。

 ○逸脱的思考
 ヴィトゲンシュタインの言語ゲームのいうボードゲームの外側に想像力を発揮して、ボードゲーム上に既に存在していたが気づかなかったアノマリーと出会い直す、再認識するための思考である。
 
 これらの思考により、贈与を受け取る、というものである。
 そして、最後にこの求心的思考及び逸脱的思考を機能させるために、勉強の重要性を説く。

2.解説

 この本は、バタイユ及びデリダの「贈与論」を議論の下敷きにしているんだけど、デリダが出てくるのは東浩紀を仲介した「散種」のみであるし、バタイユは名前すら出てこない。なので少し両者について触れたいと思います。そうすることによって贈与論における本書の位置付けがクリアになりますので。


 バタイユは、今現在で起きている交換のみの経済は、「限定経済」であり、贈与が基本となる「普遍経済」こそが正しいのだ、と言うんですね。
 バタイユ的に言うと取引形態は、交換ではなく、贈与が先行するわけですね。贈与で生まれた負い目を返そうとして、交換が生まれたと言ってるんですね。


『贈与の交換価値が生じるのは、受贈者が、その恥辱をそそぎ、挑戦を受けとめるために、後日さらに莫大な贈物で応じることによって、すなわち過分に返報することによって、受贈の際に負わされた負い目を返さねばならないところからである。
  『呪われた部分』、バタイユ 生田耕作訳



 贈与は贈与である時点で受贈者に呪いを与える。この部分は、本書第三章の贈与が「呪い」になるとき、で語られてることと一致してくるわけですね。
 また、贈与も返礼の義務を与える時点では広い意味では交換のパターンに一類型なわけです。
 で、バタイユもヤバいと思って別の概念を考える。そこで出されたのが『純粋贈与』ですね。
 純粋贈与がどういうふうに起きるかと言うと、例えば、贈り手が贈り手の宝物を受贈人の目の前で儀式的に破壊すれば起きる、と言うんですね。
 動物や奴隷を犠牲に捧げる供犠や非生産的な蕩尽は本来、決して返礼を期待しない贈与であり、純粋贈与になる、と。
 こうすれば返礼の期待もなく受贈人に呪いが起きることもない、となるわけですね。
 で、この純粋贈与は無欲であり、贈与の究極的な姿となり、至高性がある、となる。

 この部分は本書の第四章のサンタクロースの正体と重なってくる。ちなみにサンタクロースを純粋贈与のシステムとしたのは、内田樹が元ネタですかね?内田樹は、本書の参考文献に記載していた『困難な成熟』以外読んだことないので、分かりません笑。


 次はデリダの贈与論になります。ここも第四章の議論と重なってきます。
 デリダは『時間を与える』のなかで贈与をこう定義します。



 『贈与があるためには、相互性、返還、反対贈与、負債がないようにしなければならない。もし他人が私が与えるものを私に返すならばあるいは私にその借りをつくるならば、あるいは私に返さなければならないのなら贈与はなかったことになるだろう。この返済がすぐに行われようと、長いあいだ返済を遅らせる〈差延させる〉複雑な計算のもとで計画されていようと、それは同じである。』



 かなり徹底している定義なわけですね。贈与っぽい交換とか許さないわけです。

 『最後のところでは、受贈者は贈与を贈与として認めないようにしなければならない。もし彼が贈与を贈与として認め、贈与が、彼に対して贈与として現れ、プレゼントがプレゼントとして彼に現前するならばこのような単純な認知でも贈与を破棄するのに充分なのだ』

 『なぜなのか。なぜならば、この認知は物そのもののかわりに象徴的等価物を返すのだ。…象徴的なものは、交換と負債の秩序、循環の法や秩序を開きかつ構成するが、そこでは贈与は破棄されてしまう』


 つまり、なんていうかと言うと、さっきの贈与と認識した途端にバタイユ的な呪いが出てきて、心の中でお返しの気持ちが現れるわけですね。そうなっちゃうともはや贈与ではなく、交換だ、と。
 デリダは「贈与は贈与として意識に現前しない限り贈与となりうる。」と考えてるわけですね。
「絶対的な忘却」が必要だ、と言うんですね。偽善者を絶対許さないマンみたいな感じですよね笑
 だから純粋贈与だろうがなんだろうが認知されればアウト!純粋贈与ってほとんど無理じゃね?となるわけです。
 だから、内田樹発案のサンタクロースは、親がどう思おうが、「サンタさんにゲーム貰ったぜ!」と子供に認知された時点で、デリダ的に言えば、贈与の現前化がなされてるんで、交換となる。


 『贈与が存在しないなら、贈与は存在しない。しかし、贈与が他者によって贈与として、把握され、見守られているなら、その場合もまた、贈与は存在しない』


 デリダ的に言えば、贈与の現前化が交換となるのならば、贈与を現前化させないならば贈与となるわけです。


 『贈与は贈与ではない。贈与は、時間を与える限りでしか、与えない。贈与と純粋で単純な他の交換の、操作全体との差は贈与があるところに時間があるのだ』


 というふうに贈与の不可能性を述べているわけですね。
 
 つまり、忘却された、認知されていない、贈与が時間を持つ限りで贈与である。イメージとしては、忘れて放置されている地雷=贈与みたいなもんかな、と
 
 で、本書の主題はしいて言えば、デリダ的な贈与ってなに?ということと、ほぼ重なってくるんですね。現前させず、時間を引き裂く。今と別の時間の同時性。


 『贈与は、差出人にとって受け渡しが未来時制てあり、受取人にとっては受け取りが過去時制になる。贈与は未来にあると同時に過去にある』
 Kindle版1,118頁


 つまり、「絶対的な忘却」をさせるために時間軸をズらして楔を打ち込み、痕跡を残させる。そして、東浩紀の「郵便的」「誤配」を引用して、贈与を不合理なもの(アノマリー)として、召喚させる、という風になってるわけですね。


3.感想

 アイディアとして面白いんじゃないかな、と時間の二重化。無責任だけど責任が伴う贈与。こういう感じは好きですね。
 あと、贈与論は受け手のことばっかり論じられるけど、贈り手の態度もしっかり入れてるのは良いんじゃないか、と思います。
 贈与論を学ぶのに手っ取り早いかつ面白い一冊ていったら中沢新一のカイエソバージュ『愛と経済のロゴス』なんだろうけど、こっちを最初に読んでも良いのかな、とも思う。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームも触れるし。
 
 さて、疑問点です。

 ○結局最初の貧困な親子は、著者の贈与論で具体的にどうやって救うの?

 基本的に贈与論っての資本主義の交換社会の機能不全に対するアンチテーゼとして出されてるんで(デリダを除く)、不遇なものをいかに救うか、というのを答えなきゃけいけない問いなんですね。けど、著者の贈与論って結局は、「いっぱい勉強して色んな贈与に気づこうぜ!」ってとこに落ち着いてるから、解決策が見えにくいわけです。著者の考えだと交換が、贈与に先行してるわけでもないですし。だから、冒頭の貧困な親子をどう救うかが著者の結論だとイメージしにくい。


 ○求心的思考も贈与に気付くかどうかの議題終止しており、贈与そのものの内容の吟味には触れていない。
 
 ズバッと言っちゃうと、ヘイトスピーチみたいな人種差別的な危ない言論を贈与として受け取ってしまったときのストッパーみたいなものの話がないんですよね。著者的には、不合理の合理化!気づけばオッケー!となるわけですけど。
 まあ、ありえる対応策としたら、想像力もしくは逸脱的思考でカバーするってなるんだろうけど、その点については本書中では触れてないですからね。詳細は……わかんないですね。

 でも以上の2点は今後の仕事で解決できることですし、そんな大きい問題でもないのかなあ、と思う。この本面白いから読んでも損はないかな、と。サクッと読めるし。
 

 【余談】
 本書もだし、カイエソバージュでもそうなんだけど、バタイユの名前が一切出てこなかったんすよね。日本の思想界において、バタイユに触れるってのはダサい行為なんすかね笑。

4.参考文献

『呪われた部分』ジョルジュ・バタイユ、訳生田耕作

 ジャック・デリダの『時間を与える』は、邦訳されてないので、フランス語読めませんでした笑。なので以下の論文から解説とともに引っ張ってます。

『贈与は贈与にあらず!?--ジャック・デリダ贈与論についての一注解』岩野卓司

『デリダにおける贈与と交換』ダリン・テネフ訳横田祐美子、松田智裕、亀井大輔

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