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映画『LEON』に見る日常の崩壊と新しい日常の話

最近、映画『LEON』を観た。LEONを初めて観たのは遅ればせながらも二十歳を過ぎてからで、それ以来、何度も観ている。洋画で好きな作品を挙げよと言われたらおそらく真っ先に出てくる。自分が中二の頃に触れて強い影響を受けたアニメ(『Gungrave』)やゲーム(『Phantom of Inferno』)がLEONの強い影響下にあるので、肌に合っている。もっと早く観ればよかった。

今のタイミングでLEONを観た感想として湧いてきたのは、「ああ、この物語は日常の崩壊を描いた物語だったんだな」ということ。もちろん本作が描き出す色んな美しさがある中での、ごく僅かな一部に過ぎないのだけど、今までの視聴では気づくことのない側面だった。

登場人物それぞれの日常

本作の主役であるレオン(ジャン・レノ)にとっての日常は、毎朝片目だけを開けて起きて、アグラオネマの鉢植えを太陽の下に出し、トレーニングをして、ミルクを飲み、“仕事道具”の手入れをして、“仕事”の打ち合わせがあれば行き、“仕事”があれば適切にこなして、シャワーを浴び、片目を開けたまま眠る日々の繰り返し。

レオンが出会う少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)にとっての日常は、合わない学校への登校を拒否し、家でそりの合わない父・継母・義姉と喧嘩し、アニメのトランスフォーマーを見て、弟を愛で、こっそり煙草を吸う日々の繰り返し。

仇敵スタンスフィールド(ゲイリー・オールドマン)にとっての日常は、表では麻薬捜査官として働きながら裏では麻薬の流通を管理し、妙な動きをした売人がいれば追い込み、時折“精神安定剤”を服用する日々の繰り返し。

「日常の崩壊」こそ物語になる

そんな彼らの日常は、スタンスフィールドの日常である追い込みでマチルダの日常が崩壊し、難を逃れたマチルダによってレオンの日常が崩壊し、レオンの“仕事”でスタンスフィールドの日常が崩壊し、いよいよ三人にとって決定的な破局を迎える。最終的にはマチルダが、新しい日常を取り戻すために一歩を踏み出すところで物語は終わる。

僅か2時間程度の尺しかない中で、序盤の数十分でストーリーが始まる以前の「それぞれの日常」を想像できるように描く(スタンスフィールドはちょっとわかりにくいが……)のだから、秀逸な作品だなぁと思う。そして映画=ドラマとは、日常の崩壊から生まれるものなのだなと気づく。

崩壊後の世界

別にコロナで自分の人生がドラマティックに彩られたとかそんなことを言うつもりは全くない。どちらかといえば駄作にも埋もれる駄作だ。ただ少なくともこの数ヶ月の世の中は間違いなく劇的であったし、緊急事態宣言が終わって日常を取り戻そうと言い出した今、一旦のエンドロールが流れつつあるのは間違いない。

LEONという作品に限って言えば、崩壊の前後でマチルダを取り巻く世界は一変した。少なくとも身寄りのほとんどなくなった崩壊後の世界はまともとは言い難い。が、彼女にとって本当にくだらなくてつまらなかった従前の日常とは、全く異なる世界に生まれ変わった。

結局、諸外国に比べると致命的な破局とは言い切れないまま終息を迎えつつある――もちろん多くの人が苦しんだことは間違いないのだけど、雰囲気としては――日本は、果たしてこの日常の崩壊の前後でどれぐらい変わることができるのかなぁ。……周りに期待するんじゃなくて自分が変わってけって話ですね。はい。わかります。


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