(79)正始八年の正使は伊都王族

079伊都王族

伊都國(糸島半島の平野部)

邪馬壹国から帯方郡へ、第1回使節団の正使に当てた「難升米」の文字は「難」が姓、「升米」が名前、総じて「米の計量に厳しい」の意味になっています。「交易有無使大倭監之」の「大倭」に通じる人物です。 

副使「都市牛利」については、「倭人伝」に「其地無牛馬虎豹羊鵲」(其の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲は無し)とありますから、「牛利」の表記が倭語の意訳でないことは明らかです。「都市」は姓というより「都の市」を意味する形容詞のようなものかもしれません。「都」といえば伊都國をおいてほかにありません。 

名前に入っている「牛」の元は倭語「大きな」の「ク/グ」でしょう。それに「牛」の文字を当てたのは異族を家畜動物相応に見る中華思想の現れです。ところがグリ(ゴリ)は賢く切れ者だったので、「利」を当てたのではないかと思います。 

第2回使節団の正使「伊聲耆」は「伊」が姓、「聲耆」が名で「精霊のお告げを伝える老人」の意、副使「掖邪狗」は「掖」が姓、「邪狗」が名で「面妖な信仰を補佐する下僕」の意。2人とも宗教、信仰に関係する者であることが示唆されています。これは邪馬壹國が「其餘旁國」に押されて派遣した使節団だったのでしょう。主だった人間が8人いたと記されているのはそのためです。 

正始八年(247)の第3回使節団は狗奴國と邪馬壹國が「互いに攻擊している状態を説明した」とされています。その使者は「倭載斯烏越」でした。5文字の名は不自然で、過去2回の使節団は正使、副使の2人1組なので、「倭載斯と烏越」もしくは「倭載と斯烏越」に分けるのが一般的です。 

「倭人伝」には計8人の倭人の名前が出ています。それを姓・名で表すと、難・升米、都市・牛利(または牛・利)、伊・聲耆、掖・邪狗、倭・載(または倭・載斯)、斯・烏越(または烏・越)、卑・彌呼、卑・彌弓呼となります。少なくとも華夏の知識人はそのように解釈したはずです。 

『宋書』に見える倭の五王(5人でなく6人、7人とする指摘があります)は「倭」姓を名乗りました。倭讃、倭珍、倭済といった具合です。 華夏の宮廷官吏が受容しやすいように、姓と名を1文字で表す名乗りを使ったのでしょう。それは匈奴の単于が漢帝国に帰順したことを示すために「二名」(2文字の名前)を使うのを止めたのと同じです。 

そのような前提に立つと、倭載(または倭載斯)は倭の王統に属する人物ということになってきます。「倭」姓を名乗るからには、成金的な新興勢力ではありません。われわれに与えられている情報で判断すれば「丗有王」と記述される伊都國、その王族に違いありません。卑彌呼女王の後ろに控える実質的な王だったのか、有名無実な名族だったのかは分かりません。 

「載」の文字は「車+戈」で成り立っています。「戈」の原型は「才」で、「伐りとって車に固定する」の意と理解できます。もちろん倭語の名は「サイ」「ザイ」に通じる音を持っていたのでしょう。伊都王統の一族が出向いて切迫した状況を訴えたからこそ、王頎は張政の派遣を即断したのです。


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