(154)倭國使はなぜか半裸で裸足

154倭人の肖像

左:王会図の倭國使/右:日本の服飾史から

 ぶっちゃけますと、この連載は《倭人の肖像》というタイトルで書き進めていた予稿(稿想ないしスケッチ)が元になっています。さらにさかのぼると、スタートは『梁職貢図』に描かれている「倭人」の図があまりにも日本人らしくないのがきっかけでした。

 『梁職貢図』というのは、のちに華夏南朝の梁(502~557)第4代孝元皇帝(在位552~555)となった湖東王蕭繹(508~555)が自ら筆を取ったとされています。それで「蕭繹職貢圖』ともよばれているようです。華夏周辺の異族が列を成して、華夏の皇帝に挨拶にきたときの光景を描いたものです。

 蕭繹は幼いころ病で右目を失明し、第7子ということもあって帝位継承の資格を失いました。しかし聡明な人物だったと見えて、40歳のとき鎮西将軍・都督・荊州刺史に任じられています。荊州は現在の湖北省のあたりです。

 若かりしころ建康の王宮で目撃した異族朝貢の儀式を思い出しながら、裴子野(469~530)の「方国使図」を参考にしといわれます。裴子野は異族使節団に応接する鴻臚卿の職にありました。

 完成した時には35の異族(国)の使者が記載されていたとされていますが、原本は失われ、現在は複数の写本によって17族の名と12族の肖像が伝えられています。唐初の画家・閻立本による模写「王会図」、北宋・熙寧十年(1077)の「模本残巻」(北宋模本残巻)がそれに当ります。

 「王会図」と「北宋模本残巻」は鮮明度や色使いが違います。唐初に複写された「王会図」のほうが鮮明なのに、それより400年近くあとに描かれた「北宋模本残巻」は絵の具が剥落したりしています。ただ両書の倭人像は、構図や服装に極端な違いがありません。原本が同じだったことが推定されます。頭に帽子のような被りもの、肩からかけて鳩尾(みぞおち)のあたりで結んだ大きな布を上衣とし、下半身は腰に巻いた布で包んでいます。

 体にまとっている布を外せば、おそらく褌一丁なのに違いありません。首と胸元に輪のように見えるのは布でできた飾りでしょうか。両腕両脚に手甲脚絆を着け、跣(はだし)という出立ちです。

 13人の使者の中で、靴を履いていないのは西域の滑、東夷の倭國、南蛮の狼牙参の3か国ですが、滑國使は髪を結い上げ、長い筒袖の儀礼服をまとっています。狼牙参國使が半裸なのは、マレー半島の古代国家であることを考えると民族衣装として不自然ではありません。

 一方、百済國使は冠、礼服、皮靴で辞儀を正しています。高句麗國使、新羅國使もやはり冠、礼服、皮靴を着用しています。この3国と倭は同じ気候帯に属し、6世紀にはほぼ互角、対等な外交関係にあったのに、倭國使の姿はあまりに貧相です。特段の説明がなければ、「王会図」の倭國使はインド系の商人、北宋模本残巻のほうは漁撈の民のように見えます。

 これについて、

 ——魏志倭人伝の記述から想像で描いた可能性が高いのではないか。

 と見る向きが少なくありません。

 『梁職貢図』が描かれたのは、『書紀』が伝えるオホド大王(継体)からヒロニワ大王(欽明)の時代です。倭國は前王朝の宋と頻繁な往来がありました。なぜ蕭繹は倭國使をインド系の風貌に描いたのか、です。

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