(168)『宋書』が記す倭國の「遣宋使」

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於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 (揚洲周延筆)

 倭讃ないしその先代が、はじめは内心で、やがて明瞭に表明するようになった「われわれは蛮夷の族ではない」という思いは、おそらく新羅や百済と対等であろうとし、高句麗より上位に立ちたいという気持ちのためでしょう。

 実態はともかくとして、例えば新羅の王統は「故地は楽浪で秦帝国の末裔である」と主張していましたし、百済の王統は「帯方の地から渡海してきた」としていました。倭の王統もまた、出自を楽浪、帯方に求めようとしたのですが、華夏の上古から海洋交易の民である「倭人」は広く知られるところでした。

 一方、高句麗は上古から「濊」「貊」「沃沮」「扶余」などの名で呼ばれていた東夷の一種族であることが明らかでした。当の高句麗も華夏出自を装うことなく、華夏風に染まった鮮卑族の慕容氏と対等に戈を交え、当時の北東アジアにおける最強の騎馬軍団を誇っていました。

 そのような中で倭の王権がより上位に立つには、華夏出自以上の存在になることが必須に思えたのでしょう。擬似的であれ華夏と同質たらんとしたのです。昨日まで「攘夷」を叫びながら鹿鳴館で西洋を擬態し、戦いに敗れたとたん、「鬼畜」と憎悪した米英に憧憬して「黄色いアメリカ人」にならんとした戦後経済成長を見る思いがします。

 倭の王統が華夏(宋)帝国に派遣した使節団は、永初二年(420)を皮切りに、元嘉二年(425)、同十五年(438)、同二十年(443)、同二十八年(451)、大明四年(460)、同六年(462)、昇明元年(477)、同二年(478)の計9回に及びます。これは皇帝への朝貢であって、丞相や蛮夷諸族担当の吏僚への非公式な貢献使は記録されなかったと推測されます。

 魏の丞相だった当時の司馬懿(晋の宣帝)に「東倭」が貢物を献じたり、皇帝の秘書官を通じて内密の相談を持ちかけたりした記録が残ったのは珍しいケースでした。実際には日常的に非公式な接触が行われていたからこそ、皇帝の交替や大規模な儀典に合わせた朝貢が可能となったのです。

 倭王が頻繁に遣使したのは、宋朝皇帝の交替(420~479年の60年間に8人)と、倭の王位継承(60年間に5人)が重なったのが主な要因でした。とはいえ、それにかこつけて留学生を送り込んだと推測することは不自然ではありません。『宋書』はそれに近い遣使があったことを記録しています。

 元嘉15年(438)「珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號」(珍また倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正することを求む)、同二十八年(451)「并除所上二十三人軍郡」(并びに上る所の二十三人を軍郡に除す)がそれに当たります。

 1人に随行員が5人とすると、438年は65人、451年は115人です。このほかに正副の大使、儀仗官、書記、司祭、下僕、水主がいたはずなので、総員は100人を超えたでしょう。

 送り込んだ学生を迎えに行かなければなりません。帰帆船には書物や機材、用具も載せなければなりません。それが60年間に計9回も使節団が往来した事情ではなかったでしょうか。

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