(11)上柱國禰公墓誌に見る「日本」

011祢軍墓誌拓本

この列島の王権は、中国王朝の命名による「倭」を疑いもなく受け入れ、王権の名乗りとして使ってきた。それを「日本」という名乗りに変えた(変えようとした)のは668年ではないか、というのがこれまでです。

668年に何があったかというと、葛城王が大王位に即位し、近江・大津に王宮を移しました。併せて近江律令を定めたとされています。大王というものを、有力豪族のパワーバランスを維持する調整弁から、官僚組織の上に立つ絶対的な存在に変えていこうとしたのでしょう。

遣隋使が中国王朝から持ち帰った「皇帝」「律令」の概念が反映されているようです。「従ってくるものだけでいい」と覚悟を定めて飛鳥から出た延長線上に、「倭」の名乗りも捨てる決意があっておかしくはありません。

この説を補強するのは2011年の7月、中国の西安で発見された「大唐故右威衛将軍上柱國禰公」の墓誌です。唐の廷臣にして右威将軍上柱國の地位にあった故・禰公(禰公は尊称)という意味で、本名は「禰軍」といいました。

墓誌には 公諱軍字温 熊津蝸夷人也 其先與華同祖永嘉末避亂適東因遂家焉 とありまして、先祖が永嘉の乱(304~316)のとき難を逃れて半島に移り住んだこと、祖父の代から百済王国の「佐平」という要職にあったこと、禰軍は唐・新羅連合軍が百済王国に侵攻してきたとき降伏し、唐の熊津都督府の武官となったことなどが記されています。

高句麗平定のあと唐と新羅の関係が悪化した670年、新羅に捕われ、のち釈放されて678年の2月、長安県(現在の西安市長安区)で66歳で没しました。

禰軍は『書紀』葛城王の称制四年(671)九月条の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」として登場しています。白村江戦の戦後処理、対倭交渉で重要な役割を担っていた人物です。その人の墓誌に「日本」の文字が出てくるのです。

それは 日本餘噍拠扶桑以逋誅(日本の餘噍は扶桑に拠り誅を逋(のが)る)という文言です。

「餘噍」は逃亡者、扶桑とは『山海経』という中国最古の地誌に出てくる伝説上の大樹です。中国から見た東の果て、太陽が昇るところに生えていると信じられていました。それで後世、日本の異称として使われることがあります。

墓誌では「日本」と「扶桑」が別のものとして扱われているように読めます。日本に逃亡した百済の残党(王族、貴族、軍人、軍属、富者など)が「扶桑」に拠ったので誅(処刑)を免れた、と解釈し、「日本」がヤマト王権=大海人王陣営を指すとすれば「扶桑」は近江王権=葛城王陣営ということになるのでしょうか。

写真は「大唐故右威衛将軍上柱國禰公墓誌」拓本

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