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今ここ、が体感できるとき

ここnoteでも関連記事をよく見かけるが、スピリチュアルに傾倒してからうん十年、マイバースデイのおまじないも含むなら、人生の大半を、そういうものへの探求に費やしてきた。

特に、人生のありとあらゆる面で行き詰まっていた、今から十年ほど前。

離婚し、就職するもリストラ。一念発起して看護学校に行って、卒業するも、非正規の仕事しかつけず。

再婚相手も見つからないまま、四十路を迎えるという、絶望の日々であった。

そんな中で、当時シークレットという映画が流行っていたりして、引き寄せの法則や、潜在意識の活用法などで、ネット界隈は賑わっていた。

私も藁にすがる思いで、返事が来る見込みのない履歴書を日々ばんばん送信しながら、その手の記事を時間が許す限り、読みあさっていた。

しかし知識は確実に増えていったものの、そこに書かれている教えを体感することは、残念ながらなかったのだ。

そうこうするうちに、念願の病院での正規雇用の職につけたり、借金を返せたりで、徐々には生活は上向いてきたので、以前よりは頻繁ににその手の記事を読むことはなくなっていった。

こういった経験はないだろうか。

自分にはずっと苦手で、できなかったことがある。

そのことを練習したりするといったことはなく、だが、数年後、やってみたら、各段にすらすらできるようになっていた、ということは。

私にとっては、果物の皮むきで、母親が面倒くさがりのコントロールフリークだったので、包丁には一切家では触らせてもらえなかった。

不器用な私が包丁で手を切ってケガをして、その後始末をするといったようなことを、一切したくなかったからだろう。

というわけで、家庭科の調理実習で初めて包丁を握って、果物の皮をむこうとしたのだが、生来の不器用さと相まって、それはそれは下手くそであった。

そこから10年以上たち、実家から出て、ようやく母親の呪縛から逃れて、包丁を握ってりんごの皮をむくことになった。

そしたら、あら不思議!

全く、あれから練習などしていなかったのに、スムーズに手早く皮をむくことができたのだ。(あくまで対私比であることは言うまでもない。平均以上の不器用さであることは不変なのだ)

と、話がだいぶ横道にそれたのだが、この包丁が時間がたったら上手に使えるようになった例のように、以前は活用できなかった潜在意識の教えを、今になってようやく体感できるようになったのだ。

具体的には、「今、ここにあるのを感じる」、「充足をみる」といったようなことなのだが、昔はなぜわからなかったのだろう、と思わなくもない。

しかし思い当たるのは、ある程度暮らしが上向いて、生活が落ち着いたときに、自分の中に心の平安を感じる瞬間ができたということだった。

今、ここにあるのを感じる、というのは、どんなにパニックな状態になろうとも、それは自分の頭の中で起こっているのであり、今実際に存在しているのは、おだやかな今なのだから、それに気持ちを向けようということであると思う。

昔の私の場合、その「穏やかな今」という状態が、そういえばなかったので、未知の実感できる状態ではなかったということなのかもしれないと。

穏やかな状態を知ってから初めて、わかる概念だったのでは、と今にして思うのだった。

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