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ゴールデン街で一番の美女 ~新宿ゴールデン街 月に吠える日記~

この物語は、新宿ゴールデン街「月に吠える」店主のコエヌマカズユキが、この街で経験した出来事や、出会った人々について描いたものです。事実をもとにしていますが、あくまでフィクションと認識のうえお読みください。

ゴールデン街にはどうしようもない酔っ払いがたくさんいるが、魅力的な女性も多い。「月に吠える」にもこれまで、たくさんの美女が来店してくださった。それこそ女優やタレント、モデルなどもいた。しかし、最も印象に残っている美女は、客引きのアキさんだ。

御年67歳、自分のことを「俺」と呼び、口ぐせは「てめえ」「バカ野郎」「死んじまえ」。ゴールデン街で出会ったなかで、いや、生涯を振り返っても、彼女ほど魅力的な女性はそういない。

「月に吠える」は2012年6月にオープンした。最初の一週間くらいは知り合いがたくさん来て盛況だったものの、以降はさっぱりだった。それまで僕は、ゴールデン街でときどき飲んでいたが、常連というほどの頻度で来ていたわけでなかった。行きつけの店もなければ、知り合いもいない。ほぼアウェーのなかで店を始めたのだ。

本をたくさん並べた店内を物珍しそうに覗く人はいたが、そのまま通り過ぎてしまうことがほとんどだった。ゴールデン街中が賑わっているのに、僕の店だけ異空間のようにいつも静まり返っていた。たまに入ってくる客もいたが、「何が文壇バーだ、この野郎」「看板下ろせ」「殴ってやろうか」と絡まれることもしばしばだった。精神的にも金銭的にも辛い日々が続いた。すっかり疲弊した僕は、一ヵ月もしないうちに「もう止めようか」とすら思った。

アキさんが初めて来てくれたのは7月の終わり。いつものようにお客さんがほとんど来ないまま、閉店時間の午前2時を迎えようとしていた。片づけをしようとしていると、杖を突いた小柄な老婆がふらりと入ってきた。それがアキさんだった。

「いらっしゃいませ」

「ここはいつできたんだい?」

席に座りながらアキさんは言う。濃い紫色のカーディガンに、カーキ色のズボン、白髪交じりの頭。田舎のおばあさんという風貌だが、目力が強く、威風堂々としたたたずまいは、深夜の飲み屋に違和感なく溶け込んでいた。

「一ヶ月くらい前です」

「そうか。ゴールデン街にしちゃキレイな店だね。茶割りをくれ」

アキさんはお酒を一気に半分ほど空け、おつまみのあられをバリバリとかじった。僕は聞いた。

「この辺にはよく来られるんですか?」

「バカ野郎。よく来るも何も、何十年も前から毎日通ってるよ」

「そうなんですね、すごい!」

ののしられても、不思議と嫌な感じはしなかった。アキさんは二杯目の茶割りを飲みながら、ゴールデン街の歴史やさまざまな出来事を話してくれた。

「そこの店は昔は寿司屋で、店の前に水槽があったんだ。その向こうには美味い焼き鳥屋があったんだけど、オーナーが詐欺で逮捕されて閉店しちまったんだ。その向こうの店はホストがやってる店でな……」

「●●のオーナーはとんだ女ったらしでよう。本妻と2号が鉢合わせて、店で揉めたことがあったんだけど、オーナーはおろおろしちゃって。あのバカ野郎、おかしくて仕方なかったな……」

「△△のマスターは男前でいい奴なんだけど、とにかく酒グセが悪いんだ。よく店の前でぶっ倒れて寝てるよ。■■は北海道出身のマスターで、料理がとにかく美味い。お通しはこんな小皿にいつも三品出て……」

ゴールデン街に詳しいどころか、生き字引だ。聞くと、アキさんは客引きをしているという。歌舞伎町やゴールデン街で、どこに行くか迷っている人に声をかけ、提携する店に連れていく。そして売り上げの数割をもらうのだ(ちなみにアキさんの客引きはぼったくりの類ではなく、正当な料金の店にしか連れて行かないという)。

商売は繁盛しているようで、「今日も忙しかったよ。さっき、寿司を食ってきたんだ」とアキさんは笑顔で言った。それにしても、高齢なのに夜中まで仕事をし、毎日飲み歩いて、体はしんどくないのだろうか? 尋ねると、アキさんはカラカラと笑った。

「だって何日か来ないと、死んだと思われるんだ。前に一週間来なかったら、『アキさん、幽霊じゃないよね? ちゃんと足はあるよね?』って行く店行く店で言われちゃってさ!」

閉店時間が過ぎていることも忘れ、僕は夢中になってアキさんと会話をした。たまっていた不安や苛立ちを吐き出したく、お客さんが少ないことや、お店が街に受け入れられていないことなども吐露した。アキさんは静かに僕の話に耳を傾けてくれた。

3杯目の茶割りを飲み干し、アキさんは席を立った。店の外まで見送った僕を振り返り、笑顔を見せる。

「この店はうまくいくよ。お前、マジメだもの。俺が保証する」


それから、アキさんは毎日のように「月に吠える」に来てくれた。大雨で、さすがに今日は来ないだろう、というような日でも必ず。一日のお客さんがアキさんだけ、という日もあった。それでも、うちのお店に通ってくれている人がいる、というだけで勇気づけられた。

アキさんは、集客にも協力してくれた。

「おい、お店の名刺があったら何枚かくれ。俺の知り合いに配っておくからな」

「本当ですか、ありがとうございます!」

「雑魚には配らねえ、ちゃんと金を使うような奴らに渡してやるよ」

その直後、近隣の飲食店のオーナーが、常連客を連れてやってきてくれた。数日分もの売り上げを一気に稼げたことは言うまでもない。

顔を合わせるうちに、アキさんは少しずつ生い立ちを話してくれた。家庭の事情で継母に引き取られ、いじめられて育った幼少時代。不良になり、14歳で背中に羽衣天女の刺青を入れたこと。ケンカで女子少年院に入所したこと。脱走したこと。その筋の人と結婚したこと。子どもができたが、まっとうに育てたいからと離婚したこと。生活のために歌舞伎町で客引きを始めたこと。必死で働いて息子を育て上げたこと。現在は気楽に、細々と客引きを行っていることなど。

「ケンカのときはよう、カミソリを人差し指と中指、中指と薬指にはさんで、相手の顔を切るんだよ」

あるとき、アキさんはニコニコしながら言った。

「どうしてですか?」

「二つの傷が平行にできるだろう? そうしたら、傷口が近いもんだから、縫合できないんだよ。カッカッカッ!」

意外にも乙女な一面を見たこともある。店を閉めて、ゴールデン街を歩いていると、アキさんにばったり会った。アキさんは、若い男性の腕に手を絡ませ、寄り添うように歩いていた。男性は30歳くらい。大柄でひげを生やし、アクセサリーをたくさんつけた、少し不良っぽい雰囲気のイケメンである。

「ああ、アキさん、こんばんは」

言いながら、隣の人は誰か、聞いていいものか迷っていると、先にアキさんが口を開いた。

「これ、カレシ」

「えっ!?」

少女のようにアキさんははにかむ。そして二人は仲睦まじく、ゴールデン街のネオンに紛れていった。後日、お店にやって来たアキさんに聞くと、相手の男性には別に彼女がいるのだそう。しかしゴールデン街のなかでは、まぎれもなくアキさんの彼氏だという。

「だからよう、俺、カレシに言ってるんだ。ゴールデン街ではほかの女と歩くな、って」

「何でですか?」

「バカ野郎、俺が恥かくからに決まってるだろう。カレシが違う女と歩いてたら、俺のメンツが立たないだろうが」

「なるほど……」

仁義を重んじる、彼女らしい決め事だと思った。厳しい顔をしていたアキさんだが、次の瞬間、相好を崩した。

「いい男だったろ? この辺で一番なんだよ」


アキさんの生き様やエピソードは、ドラマのようにどれも刺激的だった。だがそれ以上に、僕は彼女自身の魅力に引かれていた。裏表がなく、思ったことをズバズバ言う潔さ。口は悪いが、その言葉の奥には必ず愛情があり、思いやりがある。そして何より、老婆とは思えない豪快な飲みっぷりと、可愛らしい笑顔。僕は毎晩彼女と会えるのを心待ちにするようになった。

「月に吠える」が開店してから3ヶ月が経った。少しずつだが客が増え、常連客も付くようになった。入れ替わるように、アキさんが来る頻度は週三になり、週一になり、二週間に一度になった。ゴールデン街には来ているようで、たまに道端で顔を合わせて立ち話はしたが、やがて「月に吠える」には来なくなった。寂しかったが、いつまでもアキさんに頼るわけにもいかない。これでいいんだ、と僕は自分に言い聞かせた。

夏が過ぎ、秋が過ぎ、街には師走の気配が漂うようになった。その日、忘年会帰りの客でお店は満席だった。ジュースが足りなくなり、僕がコンビニに買い出しに行った帰り、店の近くでばったりアキさんに会った。

「アキさん、お久しぶりです!」

「おう。お前の店、さっき通ったけど、繁盛してるな。良かったな、最初に俺が言った通りだろう?」

「ええ、おかげ様で。本当に感謝しています。それより……」

アキさんの体は一回り小さくなり、杖を突いて歩く速度もゆっくりになっていた。

「お身体の具合悪いんですか?」

「バカ野郎、何でもねえよ」

アキさんはそう言って歩き始めた。もっとたくさん話したかったが、お客さんが待っているため、僕も店に戻った。それが、アキさんと会った最後だった。

年が明け、あっという間に春が来た。アキさんの姿は、すっかり見なくなっていた。どうしているのか、いろいろなお店で飲むたびに聞いても、誰も知らなかった。


その日、僕は店を閉めた後、ゴールデン街のたまに行くバーで飲んでいた。ほかに客はおらず、店内に流れる昭和歌謡に、聴くでもなく耳を傾けていた。ふと、新しい客が入ってきた。大柄、ひげ、アクセサリー……僕は反射的に話しかけていた。

「あの、アキさんの彼氏ですよね?」

「……アキさんの知り合いですか?」

「はい。僕、この辺でお店をやっていて、アキさんにはものすごくお世話になりました。前に一度、あなたにもお会いしたことがあります。ゴールデン街で、深夜に、ちょっとだけ。あなたがアキさんと歩いているときに」

 男は表情のない顔で、僕とひとつ席を空けて座り、ウイスキーを注文した。乾杯などせず、飲み始める。彼が口を開くのを待ったが、数分間そのままだった。

「今年に入ってすぐ入院しました」

 唐突に彼は口を開いた。末期がん、なのだそう。気丈なアキさんらしく、ごく一部の人にしか、自分の状況を明かしていない。見舞いも断固として拒んでいるのだと、彼は続けた。僕はしばらく言葉を継げなかった。水臭いですよ、アキさん。教えてくれないなんて、寂しいじゃないですか。そう思ったが、「お前みたいなガキに言うわけないだろう、バカ野郎」と諭されたような気がした。

「本当に、魅力的な方ですよね」

さまざまな思いがこみ上げ、僕はそうつぶやいた。彼は返事をせず、静かにグラスを傾けた。昭和歌謡が、人生は捨てたもんじゃないと歌っていた。

あれから約7年が経った。「月に吠える」は、何とか順調にやれている。細々とだが、今後も続けていくつもりだ。アキさんが戻ってきたときに、かける言葉は決まっている。「アキさん、お帰りなさい。足はちゃんとありますか?」と、「茶割りでいいですか?」だ。ゴールデン街で一番の美女を、僕は待ち続けている。(終)


【月に吠えるのTwitter】
http://twitter.com/puchi_bundanbar

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