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心の正直さに苦しむ小夜

自粛生活になってからの毎日は前からずっと1人の時間が多かったので1人でいることに違和感はないが、LINEの通知が増えたこと、マネージャーさんから定期的に健康状態確認の連絡くることに違和感は感じつつも繋がってることの有り難さを感じたり、長崎のおばぁちゃんからの仕送り食材と手作りマスクに心が温まり、毎日1本映画を見て料理をして温かいご飯を食べて心を教育している。バイト先の人達とのzoom飲みは更に距離が縮まった気がして嬉しかった、noteを書くように勧めてくれたお姉ちゃんのお陰で今日で毎日更新をして2週間が経つ。なので自粛生活前より人に囲まれて充実した生活しているような気がする。人は与えられた環境の中で幸せを感じるように、自分らしく生活できるようになっているのだ。この環境に適応してきたんだな。

うん。

きっとそうだ。


いや、そんなことはない。自粛生活前の方がよっぽど活動的で思考を凝らしてぐっすり寝て。
いつも何かに追われていて、不安で。その不安を少しでも減らそうとまた思考を凝らして。
そんな毎日に少し疲れたときもあったけどそれか僕の毎日で僕が選択した生き方だった。
間違いなく充実していたはずだ。
やりたかったことや出たかったライブは全て中止になり、バイトもなくなり収入はゼロになった。大好きなテラスハウスも放送が止まってしまった。
なのになぜ僕はこの生活も悪いものじゃないなぁなんて思ってるんだ?
もっと飢えた状態でイライラしてなきゃダメだろ?

決まった時間に起きて、料理をして、映画を見て本を読んでnoteを書いてお風呂に入って、決まった時間に寝る。
こんなものは老後の生活じゃないか。
誰でも送れる毎日じゃないか。

今の制限された生活で自分にしか送れない生活はなんだ?
自分はどんなことが出来る人間なんだ?
そんな自問自答を繰り返す日々。


答えなんかでない、というか答えはない。
こんな生活になる前から僕はなにも出来ない人間だったのだから。
なにも出来ない人間が無理矢理何かに追われる生活を作り、それを充実と呼び無理矢理心にその充実を押し付けていただけだ。
だから何もしなくてよくなった、何にも追われない生活になった途端、心が本当の充実を感じるようになったんだ。元に戻っただけだ。

人間やりたいこととできることは違うとよく言われる。適材適所、自分の才能を活かせる場所に就きなさいと。

僕は何かを創って人に見せて、喜んでもらって、求められて、もっといいものを創ることに苦しんで、葛藤して、また創って見せる。そんな人生を夢見ていた。ネタでも文章でもなんでも。
それによって僕の心は充実を感じ満たされるのだと信じていた。
でも本当は僕の理想を心に押し付けているだけなのか?
子どもが親のエゴでなりたくも無い医者になろうと無理矢理勉強しているような感じで。


今の老後のみたいな生活になり、充実を覚えてしまったことが悲しく、苦しく、虚しい。
それも本当のこと。

どちらが本当の自分なのだろう。
自分が本当にやりたいことは何なのだろう。
なにができるのだろう。
やりたいこととできることどちらを選べばいいのだろう。
どちらもなかったらどうしたらいいのだろう。

あと数日たったらこの生活にもさすがに飽きてやっぱり僕の充実した生活は自粛前のものだったんだと確信を得られるのだろうか。
そう思いたい。気付かず無理矢理自分にやりたくないことを押し付けてしまいたくない。


今日もこんな時間になってしまった。
何かに没頭することが出来ればこんな頭が痛く、心が苦しくなることを考えなくて済むのに。没頭するものがない。待っているだけでは見つからない。

明日は少し意識を変えて、没頭できるものを見つける意識をもって今の老後生活を送ってまたこの時間にnoteに帰って来よう。
なんでもどんなことでも大切なことはやってみることと、それに時間を費やすことだ。
たとえいい結果にならなくてもそれは失敗じゃない。人生の中の小さな点にしかならなくてもその点を沢山作るって線で結んだとき自分の人生の素敵な形が出来上がるのだと思う。

点のない状態から形をつくろとするからどんな形にしていいか悩み、止まってしまうんだ。


僕の人生はきっと歪で醜い形をしているかもしれない、でもそれに愛着をもてるよう日々を大切に生きたい。


励みになります。皆様の慈悲深きサポートの渾身の合掌で包み込み新しい木魚を買います。