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魚の自然誌―訳者あとがき

 著者のヘレン・スケールズさんとは、前著『貝と文明』(築地書館)の翻訳に携わった縁で2016年に初めて東京で会い、そのとき築地市場を案内した。売られている魚を見て歩きながら、次は魚の本を書こうと思っていると嬉しそうに話してくれたのを思い出す。前著には牡蠣(かき)を食べる話が出てきたので、魚も食べる話が出てくるのかと私が尋ねると、とんでもないというような顔つきで、食べる話は書かないと言っていた。

 そして、その一年半後に本書『Eye of the Shoal』を書き上げてPDFを送ってくれた。さっそくまた築地書館に内容の要約を送って翻訳出版してもらえるかどうかを打診したら、日本語の魚の本はたくさんあるけれど、こういう視点で書かれた本は見当たらないので出版しましょうと言ってくれた。

 じつは魚のことはほとんど知らなかったので、うまく訳せるか一抹の不安が頭をよぎった。だが今はインターネットがあるので和名もわかったし、魚の論文は読めたし、写真をいくらでも見ることができた。しかし、そうした膨大な情報があっても、ネットに漫然とアクセスするだけでは、本書を指南ガイドにしてアクセスしたときのようなおもしろさは味わえなかったと思う。

 プロローグでは、子ども時代にカリフォルニアの海でアシカが魚の群れを追いまわして遊ぶのを崖の上から眺めた話が出てくる。ラジオ番組で海の話を担当しているだけあって、魚の群れが逃げまわる様子が言葉だけで生き生きと描かれる。

 第1章では、ケンブリッジ大学付属図書館の希少本室に収蔵されている古い魚類図鑑を順番に手に取りながら、ヨーロッパで魚が分類されてきた歴史が語られ、第2章では、進化の系統樹をたどりながら、魚がどう進化してきたのかを見る。

 第3章は魚の色彩についての章だ。ご想像のとおり、サンゴ礁の魚たちがたくさん登場する。カラフルな魚たちの話もさることながら、水中の世界はなぜ青いのか、深海にはなぜ赤い魚が多いのか、大きな群れを作る魚はなぜ銀色が多いのかと、いろいろな角度から魚の体色が解説される。

 第4章では、色彩に加えて発光でも魚は仲間を見分けている様子が描かれる。蛍のように異性に合図を送るための光、姿をくらませるための発光、体を鏡のように使って捕食者を欺く手法など、魚もずいぶん工夫を重ねているのだと感心させられた。

 第5章では群れをなしている魚一匹一匹の動きが解説され、第6章では、魚を食べる話ではなく、魚が食べる話で盛り上がる。発電して餌をとる魚はデンキウナギだけではない。そして第7章は毒魚の章だ。フグは日本ではおなじみの魚だが、サメ博士のユージェニー・クラークがじつはフグの専門家でもあることは知らなかった。

 第8章の魚の化石の話もおもしろい。かつてイクチオサウルスという魚竜がいた。「イクティ(ichthy)」が「魚」を意味する。イギリスのリーズ(Leeds)という人が見つけた魚竜の化石が、発見者にちなんでリーズイクティス(Leedsichthys)と名づけられた経緯が説明される。ところが、和名をネットで探すと「リードシクティス」しか見つからない。リーズの名前を分割して読んでカタカナにしてしまったようだ。和名をつける段階でありがちなことなのだろう。本書では命名の由来に忠実に「リーズイクティス」とした。

 第9章は、水中の魚が音声で交信する話だ。第二次世界大戦中にアメリカの潜水艦が敵の艦船の音を水中で聞き分けようとしたら、魚のおしゃべりがうるさくて聞き取れなかったそうだ。そして魚の声の研究が始まった。耳がないのに声を出すというのも妙な話だが、耳たぶはないものの、鼓膜に相当する耳石(じせき)なるものがあるらしい。

 そして最後の第10章では、魚の知性が紹介される。魚も物事を記憶したり、学習したりする。知性とは何なのか定義するのは難しいが、スーパーに並んでいるアジにも知性があるのかと思うと、もしかして商品棚は残酷なシーンなのかと思ってしまったりもする。

 海辺へも川へもよく出かけるが、水の中は別の次元の世界に感じられ、理解を超えた水中を自由に動きまわる魚には、食べること以外にはほとんど関心をもたずにこれまでの人生を過ごしてきた。しかし、著者の軽妙なわかりやすい文章を訳していくうちに、魚になった気分で水中を泳ぎまわっている自分がいた。魚に関心をもつには水族館へ行くのもいいが、水の中を魚と一緒に泳ぐのがいちばんよいと著者自身は書いている。けれど、家に居ながらにしてさまざまな魚を見物するという方法もあることを知った。

 日本語版では、読者のみなさんに本書をより楽しんでいただくために、原著にはないカラー口絵を掲載した。写真はすべて著者のスケールズさんにご提供いただいた。

 インターネットで調べても訳語がわからない専門用語はどうしても出てくる。そういうときは、問題の単語を使って英語の論文を書いている日本人がいないかネットで探した。探し求める訳語がその人の日本語の論文に書いてある場合が多かったが、time-place learning(時間空間学習)はどうしてもわからず、京都大学の益田玲爾さんにメールで尋ねて教えていただいた。

 なお、和名がない魚種名や英語でどう呼ばれているかが話題になっている場合は、「  」でくくって訳を示し、学名が特定できるものは訳注として〔  〕で補った。

 本書が、魚好きの人にとっても、そうでない人にとっても、水中という異次元の世界を堪能する一助になることを願って。

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