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見て・考えて・描く自然探究ノートー訳者あとがき

19世紀前半のアメリカで、鮮やかな色を放つ鳥たちを精緻に描いたオーデュボンの絵をご存知でしょうか。ミシシッピ河流域の鳥たちを描くことから始め、20年の時をかけ完成させた全435点からなる彩色銅版画『アメリカの鳥類』はあまりにも有名です。彼の言葉の中に、「私の描く絵の出来がよくないときほど、実物は美しい」というものがあります。眼前に広がる荘厳な自然世界に目を奪われながらも懸命にそれを記録しようとする熱気が伝わってきます。北米大陸には、大自然の美しさへの驚嘆と敬意に満ちた人々の活気が溢れています。

本書『見て・考えて・描く自然探究ノート─ネイチャー・ジャーナリング』も、オーデュボンのように、自然に魅了され、その素晴らしさを伝える試みの最良の例の一つです。著者のジョン・ミューア・ロウズは、カリフォルニア州を拠点として活動するナチュラリストで、本書のテーマである「ネイチャー・ジャーナリング」を著作やワークショップを通して発信しています。「ネイチャー・ジャーナリング」の説明には、ナチュラリストの意味合いを知ることが鍵となります。

ナチュラリストという呼称には、自然を愛する人という意味合い以上に、アメリカが大事に育ててきた自然に対する知的態度の系譜が関係しています。それは、ナチュラル・ヒストリー(日本ではかつては博物学と訳され、現在では、自然史や自然誌と呼ばれる)という考え方で、理念や概念から世界を説明するのではなく、目の前に存在している証拠(現象、生物、物体すべて)を収集し、観察し、分類することで真理にたどり着こうとする考え方です。北米大陸にヨーロッパからの入植が始まったとき、人々の眼前には、多種多様な生物や原野(ワイルダネス)が広がっていましたから、こうした思考方法はうってつけでした。

そして、重要なポイントとして、私たちが現在一般に科学と読んでいる領域では、手法の違いなどにより分野を細分化させていきますが、ナチュラル・ヒストリーは、そうした区分を行わず、歴史や詩など一般に文系と呼ばれる分野さえも包み込んで、自然の有り様に関する知的営みの総体として存在しています。その結果、学問ではあっても、大学や研究所に囲い込まれるのではなく、日常生活の中で一般の人々によっても共有され、発展してきました。

こうした世界の捉え方を実践する人が、ナチュラリストなのです。大人も子どもも区別なく、見て、考えて、描く(記録する)ことで、ナチュラリストとして、自然の中で新しい学びを体験できます。ナチュラル・ヒストリーの殿堂とされる自然史博物館(ニューヨーク)では、自然環境の迫力や豊かさを単に展示するだけでなく、人が自然をどのように観察するかを伝え、来館者がナチュラリストになるための工夫を至るところで見つけることができます。

ネイチャー・ジャーナリングとは、こうしたナチュラリストたちが、絵や文章を通じて、世界に向かい合うための方法の総称です。小さな発見を理論的に深める思考方法であり、かつ、思考を記録するための実践的な活動そのものでもあります。クレア・ウォーカー・レスリーの著書Keeping a Nature Journal がこのジャンルの代表的な著作とされ、アメリカでは初等・中等教育の科学教育・環境教育とも接続されています。

著者のロウズには、イラストレーターとしての才能と、それを磨くために美術教育を受けた経験を活かして、初心者がいかにして描くかを詳細に解説しているのが、本書の優れた点です。どんなことも言葉で説明し説得するというアメリカ社会の美徳が本書にも存分に発揮されています。著者のミドルネームから、環境保護の先駆者ジョン・ミューアとの関連を連想される方もいるかもしれません。著者はミューアと親類関係にはなく、著者の母がナチュラリストとしての尊敬の念から、息子のミドルネームに「アメリカ国立公園の父」とも呼ばれるミューアの名を与えたそうです。

最近では解説動画のほうが簡単だと思われるかもしれませんが、「こんな感じで……」と見本を見ることはできても、いざやってみると、どこがポイントなのかわからず、同じようにできないこともあります。そんなときは、本書の解説が威力を発揮します。美術の技法を落とし込んだ文章になっており、描き続けるためのヒントが詰まっています。ぜひ鉛筆を手にとって読みながら、描き始めてください。

日本でも様々な方法で、自然観察が行われてきました。日本野鳥の会をはじめ、全国には、自然との付き合い方を堪能する窓口がたくさんあります。また、日本でも、「日本ネイチャー・ジャーナル・クラブ」が2018年から活動を始めています。主宰者の小林絵里子さんは、ロウズの助言を受けながら、またアメリカでのジャーナリングのネットワークも活かして、学習ツールとしてのジャーナリングの可能性を探求しておられます。ジャーナリングは、作成することで終わりにせずに、語り合い、共有することが大事とされていますので、ぜひみなさんもジャーナリングの仲間を探してみてください。

邦訳にあたり、画材については基本的に原書の情報を中心に残しましたが、日本では画材や文房具は国外・国内製品を問わず豊富に入手できます。100円ショップの活用など多様なアイディアで、オリジナルのキットを楽しんでください。なお、原書はアメリカのレターサイズ(ほぼ日本のA4 サイズ)で300ページを超える大部な本なので、日本語版を刊行するにあたり、動植物の純粋な描き方など技術書的な部分は割愛しました。また、著者が描いた現地の雰囲気を楽しめるよう、本書に出てきた地域の一覧を次ページに掲載しました。

(中略)

訳者を代表して 杉本裕代

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