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魚の自然誌―プロローグより抜粋

世界を旅する魚類学者

アマゾンの熱帯雨林で日が落ちると、群れていた魚たちは、静かな川のよどみで夜を過ごすために動きを止める。群れていたのは親指ほどの小さな魚で、目の上には赤い筋が走り、体には金色の縞があって尾は二股に分岐している。水辺には高い木が茂り、底に沈んだその落ち葉の中に身をひそめたつもりだったが、その落ち葉の中の1枚が「私は魚ではありませんよ」というメッセージを発していることに、どの魚も気づかなかった。

そしてその1枚の落ち葉が群れている魚に忍び寄る。まわりに散らばっている落ち葉と同じように茶色く、黒いしみまである。体の片方の端には、落ち葉が木につながっていたことを示す葉柄(ようへい)まである。しかし漂っていったと思ったら、目にもとまらぬ速さで顎を大きく開いて、何も気づかぬ魚たちの一部をひと飲みにした。次の瞬間、コノハウオはまた落ち葉の姿に戻った。

アマゾン川の別の場所には、真珠光沢のある大きな鱗(うろこ)に包まれたテトラの一種のコペラ〔Copella arnoldi〕がいる。鰭(ひれ)の先が赤い雄は、伴侶になってくれる雌が近づいてくるのを、具合よく木が茂る岸辺の水中で辛抱強く待つ。雌が伴侶になることを承諾してくれたら、2匹は手を携えて水中から跳びはね、鰭にある吸盤でお目あての木の葉にへばりつく。雌はそこで一度に12個くらいの卵を産み、雄はそれに精子をふりかけ、2匹でまた水の中に転がり落ちる。跳ねては落ちるということを繰り返し、その葉に少なくとも200個の受精卵をぎっしり並べる。

そのあと疲れはてた雌は泳ぎ去るが、雄はその場にとどまり、卵を食べようとする敵の手の届かない葉の上の卵の世話をする。卵が乾いてしまわないように1分おきに尾で水をかけるのは雄の役目だ。日が水の中に差しこむときに光は空気と水の境界で屈折するのだが、光の性質を心得た魚は物理学など知らなくても、光の屈折率を計算に入れて水中から卵が見えている場所のすぐ近くへ向けて水を噴射し、飛ばした水は確実に卵にかかる。2日すると卵が孵(かえ)り、稚魚は水中に落ちて泳ぎ去る。

卵から孵化(ふか)したばかりの稚魚は、運が悪いと腹をすかせたヨツメウオに見つかることがある。「4つ目」魚と呼ばれていても実際には頭のてっぺん近くにカエルのような目が2つあるだけなのだが、それぞれの目が水平に二分されていて、角膜と瞳孔も左右2つずつある。瞳のレンズは人間と同じように上面が平らで、下面はほかの魚の目と同じように湾曲している。体は細長くて色はうすく、漂いながら水面の上と下の世界に目を配る。下半分の目は水中に向けられて捕食者が来ないか見張り、水面から出した上半分の目は水際に落ちてくる昆虫やコペラの稚魚を探す。

こうしたアマゾンの奇妙な生き物は、ありふれた魚の中から特にめずらしいものを選んだわけではない。世界中の水中には、淡水にも浅海にも深海にも、興味をそそる魚がいくらでもいる。

アフリカ東部のタンガニーカ湖には、雌が口の中を育児室に使うシクリッド類がいる。雄と雌が産卵のために出会うと、雌が卵を産んで雄が精子をかけ、雌は卵塊を丸ごと口の中へ吸いこむ。そして受精卵は口の中で孵化して、外の世界で生活していけるようになるまで稚魚は雌の口の中で成長する。

しかしこれは、近くに「カッコウナマズ」〔Synodontis multipunctatus〕がいない場合に限られる。白い体に黒い斑点をあしらい、髭(ひげ)を生やしたカッコウナマズは、名前のもとになった翼のある動物と同じ行動をとる。シクリッドが卵を産んでいるときに脇から割りこんで、シクリッドの卵に自分の卵をまぜこむように産むのだ。標的になった雌のシクリッドは口の中でナマズの仔を育てることになり、ナマズの仔は狭い口の中でシクリッドの稚魚を食べつくす。

一方、アフリカ大陸の沖に浮かぶマダガスカル島の地下深くの洞窟には、長さが一センチもないうすいピンク色の、目のないハゼの仲間が生息している。そして、およそ7000キロメートル離れたインド洋の反対側のオーストラリア西部の砂漠の地下にも、同じように白っぽくて目のないハゼがいる。

最近行なわれた遺伝子解析の研究からは、これら2カ所のハゼが近縁な種類だとわかり、進化的には兄弟ということになった。洞窟に生息する魚が、これほど離れた場所に泳いで分布を広げるということはありえない。生活の場は洞窟の中だけで、日の光の中に出ていくという危険はおかさない。目がないので捕食者を警戒することもできないし、皮膚に色素がないので紫外線から身を守ることもできない。

だから、これほど離れた場所に分布しているのは、大陸が移動したからだとしか説明のしようがない。かつて南方にあった古い超大陸にこれら2種の祖先種が生息していて、その超大陸に亀裂が入ってオーストラリアとマダガスカル島に分かれた。島と大陸に引き離された洞窟と魚は、そのあと一億年くらいのあいだ陸地ごと反対方向へとゆっくり漂い続けている。

そして、日の光が届かなくなる大洋の水深1000メートルくらいのトワイライト・ゾーン(薄暮層)には、奇妙な魚がいるだけでなく、魚の中でいちばん数が多いものが生息している。背中の棘(とげ)を光らせながら泳ぐ小さなサメもいれば(おそらく深海の様子を知らない侵入者に噛みつかれないように)、頭の両側にあるポケットに光る粘液を入れている魚もいる(なぜそんなことをするのか誰にもわからない)。またこうした深海には、手のひらに乗るくらいの大きさで鋭い歯を持つハダカイワシ類やヨコエソ類もいる。どちらも腹を青く発光させるので、下を通る捕食者からは姿が見えない。なかには、ホタルのように光を点滅させて通信を行なう種類もいる。

これら2つのグループの魚たちがトワイライト・ゾーンの魚のほとんどを占めていることが深海調査からわかってきて、現生のものを全部合わせると数100兆匹、もしかすると数1000兆匹という数になると考えられている。これは、ほかのどの脊椎動物よりも数が多い(これに続くのが家禽(かきん)のニワトリで240億羽になる)。日暮れから夜明けまでの時間帯にハダカイワシ類やヨコエソ類の大きな群れは、くねくねと動く餌のプランクトンが夜になって海面へ上昇するのに合わせて深海から数100メートル上昇する。地球上で見られるいちばん大規模な動物の移動であり、時計のような正確さで毎日決まった時間に世界中の海で移動が起きる。

地球でもっとも成功を収めた生き物

魚類は地球の生命史上でもっとも成功を収めた生き物のひとつに数えられ、地球の表面の10分の7におよぶ海域や淡水域で勢力をふるう。海の深さ(平均して4キロメートル)を勘案すると、生き物が生活する空間の90~99パーセントを海が占める。魚類はこの水の王国に数億年にわたって君臨してきた。海を支配する種類は時の流れとともに移り変わったが、魚がいなくなったことはなかった。

魚をほかの動物群と区別する定義はそれほど厳密なものではなく、第1章でその点を詳しく見ていく。大まかに言って、魚類は鰓(えら)呼吸をする水生の脊椎動物ということになるが、例外と言ってもよい種類が数多くいる。とりあえず例外は脇へおくとしても、魚は脊椎動物の中で数も種類も明らかにいちばん多く、背骨のある動物の半分は魚と言ってよい。魚類はだいたい3万種類いて、鳥類、両生類、爬虫類、哺乳類を合わせた数と同じくらいの種数になる。

大きさは、20メートルもあるジンベエザメから8ミリメートルの小魚まで大小さまざまで、形も変化に富む。ヘビのように細長い形もあれば、丸い風船のようなもの、弾丸や魚雷のようなもの、平らなホットケーキのようなものや、四角い立方体のような魚もいる。体色は、鮮やかな万華鏡のような魚もいるが、多くは銀色か砂のようなベージュ色で、透き通っているものもいる。動きが素早いものもいれば、まったく動かない魚もいる。寿命は短いもので一週間、長いものになると100年、200年と生きる。洞窟に生息しているものは目が要らなくなり、落ち葉のふりをして漂うように泳ぐものもいる。

変化を好まないほかの動物と比べると魚はきわめて柔軟性に富み、適応が早いので、水という液体の世界で生活するために独特な適応をとげてきた。魚と言ってもひとくくりに語ることはできない。

しかし、こうした魚の素晴らしさを目にする機会は少なく、広く知られているとは言いがたい。波の下に身を隠し、水平線のはるか向こうで生活しているからだ。海岸や川岸では潮や水位が常に変わるため水に濡れている陸地と濡れていない陸地の境界線があり、魚の世界と人間の世界は、この境界線で仕切られている。太古の時代から、勇者や好奇心がきわめて強い者だけが自らこの境界線を越えて生き抜いてきた。

数千年のあいだ、人間は魚をおもに2つの目的で利用するために水から引き上げて人間世界に持ちこんできた。まずもって魚は食料になる。魚を捕まえて食べることは人間の意識に深く根を下ろした行為で、英語では「魚」と「釣る」は同じフィッシュ(fish)という言葉で言い表わす。シカ(deer)を捕まえることを「ディア」とは言わないし、イノシシ(boar)を捕まえることを「ボア」とは言わない(ウサギ〈rabbit〉を捕まえるときは「ラビッティング」とは言うが)。古くから野生の魚を追ってきたからだろうか。日本の沖縄諸島にある洞窟を調べていた考古学者は、土の中から3万年前に貝殻でつくられた釣り針を発掘している。また、中国の北京の近くで見つかった4万年前の人骨を化学分析したところ、この初期の人間は川や湖で獲れた魚をたくさん食べていたことがわかった。

今では世界中の漁場で水揚げされる魚は年におよそ1兆~3兆匹にのぼる。これだけいれば、地球上の全人口の3分の1のタンパク源をまかなえる。漁師でも特に小規模な漁業をしている人たちは、魚の生活と密接にかかわりながら生きている。しかし大半の消費者(特に経済的に豊かな国の消費者)にとっては、日々の食べ物とその産地についての情報のあいだに深い溝ができつつある。イギリスの幼児の5人に一人は、細長く切った魚のフライは鶏肉だと思っている。

食べ物として魚に接するときには、魚は死んでから時間が経っている場合が多く、頭、鰭、内臓や骨はすでに取りのぞかれていて、ビニールできれいに包まれていたり缶詰になっていたりする。ステーキを見ても、モーと鳴きながら草を食はんでいるウシを思い浮かべることがないのと同じように、ポロポロと身がほぐれる白やピンクの魚肉を見ても、生きた野生の魚の姿を思い浮かべるのは難しい。

しかしイメージの乖離(かいり)はウシより魚の方が著しい。ウシがどのような姿をしているかは誰でも知っているのに、多くの魚の姿はなじみがうすい。イギリスではタイセイヨウダラが毎年7万トン(1人当たり1キロぐらい)消費されているが、体は両手を広げても足りない2メートルもの長さで、キラキラと光る赤銅色の斑点に覆われ、顎にはヤギのような白い髭がある魚をタイセイヨウダラだと見分けられる人は、実際に食べている人の3人に1人にすぎない。また、イギリス人の5人に1人は、しみだらけの平らな体の上面に並んでいる目とねじれた口のある魚(シタビラメ類)や、銀色の弾丸のような体形をしている口の大きな魚(カタクチイワシ類)を知らない。

食卓にのぼる代表的な魚でさえこのありさまなので、たまに皿に乗って出てくるあまり知られていない魚になると、名前をあてるのは難しい。マトウダイにはモヒカンのように棘が生えていて、銅色の皮膚には大理石のような模様があり、体の両側には金色の縁どりのある大きな斑点が一対ある。ホウボウ類は赤い体の両脇に3本の「指」があり、これで海底の食物をさぐりあてる。

人間の世界を泳ぎまわる魚には、食用になるものだけでなく伝承や民話に登場するものもいる。世界中の文化で語りつがれる魚の物語をひもとくと、海で生活する生き物に対する深い思いや葛藤があることが見て取れる。神話では、魚は人間に富、繁栄、再生、知恵をもたらす存在にもなるが、逆に、魚に身をやつした悪霊が、洪水、嵐、地震のような気まぐれな厄災をもたらす存在としても語られる。

神や女神やその取り巻きが、時には自らの意思で魚に姿を変えたり、あるいは罰を受けて足を魚の尾に変えられたりすることがある。もともとの人魚伝説は、どこの国でも陰湿であまり楽しい話ではない。のけ者にされた女が水中へ逃げて人魚に身をやつし、人を呪って、苦しめるために海に誘い出して死にいたらしめる。アンデルセンの『人魚姫』では、体の半分だけ魚でいることに耐えられなかった人魚が、舌を抜かれることに同意し、尾ではなく足で歩くと割れたガラスの上を歩くような激痛が走ることも受け入れて人の姿になった。

こうした人魚の物語では、魚となじみになったり魚を好きになったり、あるいは魚に共感したりするような感情を持つのは難しい状況だと描かれることが多い。魚は口もとに笑みを浮かべることもなく、無愛想にむっつりと口をつき出して表情を崩さないので、人間が理解できる感情がないように見える。

生きている魚にふれてみても、スーパーマーケットの商品棚に横たわって並んでいる死んだものと同じように冷たく感じられることが多いだろう。泳いで逃げられる生き物のあるべき姿とはかけ離れているのだ(これから見ていくが、すべての魚の血が冷たいわけでも、変温なわけでもない)。私は、魚が脇を泳ぎ去るときにぬるぬるした体がさわるかもしれないのが怖くて泳がない人を、何人か知っている。

そのような恐怖を克服するには、すぐ脇を泳いだはずの見えない魚の姿を想像するのではなく、顔を水につけてこちらから魚を観察してやればよい。

魚をめぐるツアーに出かけよう

本書は魚の生活を見てまわる水中の旅になる。魚とは何なのか、謎の世界で何をしているのかを知るための探検をしたい。不思議な魚の物語のベールをはがし(いくつか物語を詳しく紹介する)、冷淡な生き物だとか、理解不能な生き物だとかという風評から解き放たれ、本当の姿を知ってもらおうと思う。

魚は私たちが接することのできる最高に魅力的な生き物であり、世界中どこででも出会える素晴らしい動物だということを知ってほしい。

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