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宗教的な種族

ひとくちに宗教というが、その内部にはいろいろな種族があって、その性質はしばしば宗教横断的である。と思う。

例として分かりやすいのが神秘主義だ。イスラム教の神秘主義がスーフィズム、仏教の神秘主義が禅、というふうに、これも非常にざっくりとした話ではあろうが、「神秘主義」という宗教横断的なカテゴリが成り立つことはひとまず了解されている。

宗教にはいろんな面があって、呪術的な面、生活習慣の面、社会の仕組み的な面、人生の捉え方的な面、道徳的な面などが含まれている。そこで、宗教に関わる人は、その人がどの面に強く反応するかによって種族が分かれる。と私は思う。

これは体感的な話で、また客観的な言い方をぱっと思いつかないので、自分の言い方で言うと、私は「人生の意味」族だ。

私の種族は、「自分が存在する理由」とか「人生の意味」とかの観念にとらわれている。なおかつ「理由なんてないだろうから、とにかく楽しんだ方が得だ」とか「そういう生物なんだから、家族や社会のために活動するのが一番満足できることだ」といった答えに馴染むことが難しい、あるいは馴染み度が低い。思春期を終えたら解消するということもなくて、「人生の意味」でずっと足踏みしている。そういうタイプだ。

「人生の意味」族がみな宗教を必要とするとは限らない。

しかし、政治においてそうであるように、人生においても「中立」は難しい。空白になった場所には何かが入り込んでくる。「中立」に見えるものは形式上「中立」であるに過ぎなくて、パワーバランス上いずれかの方向に偏っている、という考え方がしばしば成り立つ。

つまり、「宗教」という軸がなければ、人生は日常生活や社会的な意義のたぐいで埋め尽くされてしまうかもしれない。それは私には、「人生の意味」にとらわれていく上で、バランスの取れた状態に思えない。

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一神教なんて、「死後に蘇って恵まれた生活ができる」なんて素朴な話をしている時点で、「人生の意味」族に馴染まなくないか? という疑問はありうる。

じっさい、「現世の楽しみには終わりがあるが、死後の楽しみは永遠である、【だから】信仰した方が楽しみの総量が増える」というような説き方は聖典に出てくる。これは理屈上、「とにかく楽しんだ方が得だ」とそう変わらない価値観に見える。

しかしこのへんが宗教の面白いところで、「だから」ってサラッと言ってるけど、その「だから」には「死」が挟まっている。

復活とは「一回は死ぬ」ということである。

死を間に挟んでも、「生前の楽しみ」と「死後の楽しみ」は「楽しみ」として同質なものだろうか?

「楽しみ」という言葉だけは同じだが、それらを同質とするのは、多くの人にとって「言いながら、やっぱりちょっと無理がある」と感じる考え方ではなかろうか。

そうすると「死後に蘇って恵まれた生活ができる」という教えは、見た目ほど素朴な話ではない、という取り方になってくると思う。

「夫が次々と死んで、最終的に七回結婚した女は、復活後は誰の妻になるのか」という問答が聖書に出てくる。イエスは「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と答える。

「天使のようになる」とは、まず「いま想像しうることではない」ということだと私は思う。生きている人間が日常で使っている、個体とか社会的な関係といった概念は通用しないという。それでいて、その想像し得ないものを目標にして向かっていく話をしている。

これもやはり、「死」を含んでいる考え方だと思う。生(我々が日常で了解しているような意味での)は仮のもの、今たまたまそうなっているだけのもの、水面にできた渦のようなもので、いつまでも通用するような性質のものではない。と私は思う。

こういうところが、私には、「人生の意味」にとらわれていく上で、ニュートラルを思い出させてくれる箇所に思える。

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