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ネコレシーバー 2

「最近さ、この変に不審者が出るって話とかって、ない?」

「特に聞かないけど、どうかしたの?」

「いや、一昨日さ、家の外の路地で大声でネコの歌を歌ってるやつがいたみたいでさ。こっちは明後日の模試の準備をしているのに、うるさくて全然集中できないから怒鳴ったら静かになったんだよ」

「なんだそりゃ、ネコの歌?」

「ねこふんじゃった、とかじゃなくて、その歌ってるやつが適当に考えた歌詞みたいなんだよな。不審者の割に声は結構いい声してんな、と思ってんだけど、とにかくこっちは勉強したかったからさ。暗くて姿は見えなかったんだけど。とりあえず怒鳴ってやった」

「近くに変なやつが引っ越してきたんじゃないの?とにかく家の周りではそういうの聞かないなぁ。ほら、俺の兄貴、警官だろ、飯の時に三丁目の田中さんがどうとか、二丁目の鈴木さんの所に空き巣が入ったとか、ほら、長浜のところが夫婦喧嘩で大騒動になって、パトカーが出動する羽目になったとか、そういう話を話してくれるんだけど。夜道で歌ってるやつがいるって話は聞かないな。あ、俺がいまべらべら喋ったやつ、名前は仮名な仮名、本名言うとまずいからさ。個人情報みたいなやつ」

それを聞いた少年が紙パックのジュースをストローで一口飲み、自分が寄りかかっている窓の外を見ると、サッカー部の長浜がうつむき加減に体育館から後者の方に戻っているのが見えた。どうも暗い顔をしているな、と彼は思った。

「遼一のところは妹さんも受験だろ?なにちゃんだっけ?さくらちゃんだっけ?なおさら歌ってるやつなんかいたら大変だよな」

「桜子、な、いい加減覚えてくれよ。もう三、四回は顔を合わせてるだろ?啓太のところは、そうかお兄さんがいるだけだもんな」

「俺のところは俺だけ。家族も手慣れたもんだから夜食とかも適当に作ってくれるし、静かにしててくれるからやりやすいよ」

「歌ってたやつ、どうせなら啓太の家の方でやってくれないかな。あの辺なら、受験生も少ないだろ」

「それだと俺が困るから駄目だよ。ただでさえ駄目な判定結果を模試でもらってるのに、もっと駄目になっちまう」

「もう下がらないだろ」

「バカにすんなよ。無限の可能性が広がってるんだって。それがなくなっちゃうだろ」

遼一と啓太は小学校からの同級生で、小、中、高と大体12年間を共に過ごしている。2人の住む街の中央には大きな川が西から東に流れていて、遼一は川の南側の新興住宅街、啓太は川の北側の更に来た、丘の上の古い住宅街に済んでいる。端的に言うと、南側は子持ちの若い家族が多く、大企業の団地が幾つか立てられていて、現在進行形でニョキニョキと新しい団地が生えてきている。北側は高齢化が進んでいて、坂を昇り降りするのに難儀している高齢者をよく見かける。手押し車のようなカートを押しながら苦しそうに登っていく買い物帰りの老人の横を、立ち漕ぎで必死の形相をしながら、遼一や啓太のような高校生が登っていく光景はおなじみだ。

「とにかく変なやつがいたんだよ。明後日の模試が終わるまではあらわれないといいんだけど」

「ちょっと兄貴に怪しいやつがいないか聞いてみるわ。いま連絡してみる。兄貴、仕事中にケイタイ触っててこの前怒られたらしいから、すぐには返ってこないかもな」

「頼むわ。変なやつのせいで受験に失敗するなんてのはいやだからね」

昼休みの時間も終わりに近づいて、男女問わず生徒たちがバタバタと教室へ駆け込んでいった。英語、世界史と眠気を誘う科目ばかりが並ぶ時間割を思い出し、遼一は次の時間の内職の効率的なこなし方を考え、啓太は帰り道に立ち読みしようと思っている漫画雑誌のことを考えていた。始業のチャイムがなる数分前に、遼一と啓太は隣同士の別々の教室に戻っていった。

「なあ、桜子、この前そこの道で歌ってる変なやつがいたんだけど、何か聞こえなかったか?」

「え?そんな人いた?お兄ちゃん寝ぼけて何か違う音を聞き間違えてたんじゃないの?この前も寝ぼけて世界史だか何かの単語をブツブツ言いながらご飯食べてたじゃない」

遼一の妹の桜子が甲高い声でそう返し、ダイニングテーブルに置かれたお茶を飲み干す。桜子は陸上部に入っているせいかやたらと肌が黒く、男勝りで元気な正確をしている割に、漫画か何から出てきたようなアンバランスに高い声で喋る。遼一は勉強で切羽詰まっている時や疲れている時は「やかましい声だな」と感じて顔をしかめながら、何か聞かれてもつっけんどんに返すことが多く、その度に軽い兄弟喧嘩みたいになるのだった。

「私、こう見えても集中力抜群だからね、何か音がしても気にならないよ」

「どっちかって言うと、イヤホンでばかみたいな音楽をばばかみたいな音量で聞きながら勉強しているからじゃないの」

「集中してるよ。お兄ちゃんより成績もいいし、日頃の行いもいいから推薦で決まりそうだし。お兄ちゃんは日頃の行いが悪すぎて、推薦は無理なんでしょ?」

「大学と高校は違うんだよ。東京の大学の推薦枠はうちの高校はないんだ」

「県の大学に行けばいいのに、そんなに東京に行きたいの?」

「それはまあ、そうだよ。音楽も、ファッションも、映画も芝居も、文化はみんな東京から伝わってくるから」

「さて、私はそろそろ試験勉強するね。お兄ちゃんも適当にやったほうがいいよ。明後日模試でしょ」

「言われなくてもするよ。歌ってるやつ、気づいたら、桜子の方からも注意してくれよ。近所に引っ越してきた変なやつの仕業かもしれないから。桜子の声のほうがキンキン耳に響くからさ、いいと思うんだ」

「うるさい。早く勉強始めなよ」

遼一もお茶を飲んで、食器の片付けをしている母の横でほうじ茶をガラスのサーバに目一杯入れて、自室へと戻る。机に座ると左に窓がある。窓の外からは遼一の家の赤い屋根と、不審者が歌っていた路地が見える。遼一の部屋の窓から見える場所は丁度街灯と街灯の間になってしまっていて暗くてよく見えないのだが、彼は路地に不審者がいないことを確認してから、ケイタイを伏せて机の引き出しにしまい、英語の参考書を開いた。窓の外をちらっと見ると、ひと月前ぐらいから彼の家の屋根によく現れる三毛猫が黄色い目をくりっとさせてこちらを見ていた。別段うちの屋根が暖かかったり、餌が落ちていたりするわけではないのだが、三毛猫にとってうちの屋根はお気に入りになっているようだった。遼一はベッドの上に置かれた煎餅のパックから一つ煎餅を取り出して、噛みながらそれを割って、窓を空けて欠片を三毛猫の方に投げた。「にゃあ」と三毛猫は小さく鳴いて、ポリポリと欠片を食べ初めた。空には不格好な三日月が照っていて、夜が更けていくことを告げていた。深い色の空には星ひとつなく、暗い色に染められた薄い雲がかかっていた。彼は吹き込んできた風から少し雨の匂いを感じて、模試の日に雨が降らないといいな。と思いながら参考書に目を戻した。

三毛猫は勉学に励む遼一をチラチラと見ながら、何度かあくびをして、少し寝てはまた起きて背中を伸ばしてを繰り返し、一晩中そこに座っていた。

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