祈り

(聖) 今日一日の区切りで生きる (聖書の学び 27)

(約 3,400文字の記事です。)

久々に聖書ネタ、いや、実は、割と自己啓発書でもよくある話。アドラー心理学でも、7つの習慣でも。(ただしどちらも根底にはキリスト教の概念が感じられますが)

*タイトルは7つの習慣からの引用だが、聖書にも書いてある

このフレーズを知ったのは、フランクリン・コヴィー氏の著書、七つの習慣からだ。私自身、十数年前から知っていた。だが、この真意を痛感したのは、聖書を学び始めてからだし、キリスト教徒になってから(つまり神様と心から契約を交わした日から)ますます強く感じている。

*死と復活の意味=昨日の自分は死に、今日の自分が新たな人生なのだ

残念ながら、死者は復活しない。だが、聖書には死と復活とが書かれている。これをどう解釈すべきか。今の結論はこれだ。昨日の自分は眠りに落ちた瞬間に死に、目覚めた時から新たな人生が始まるのである。復活なのである。

昨日の嫌なことを、今日に持ち越す必要はない。死んで復活したのだ。死んで終わるはずのものが、復活して、今日を迎えられた。過去のことなどどうでもいい。今日、こうして、味のある美味しい飯を食えて、楽しい気分がある。今日の中で辛いこともあるかも知れないが、過去の辛いことなど忘れてしまえ。だって、死んで終わりとなるはずなのに、今日、目覚めたのだから。復活したのだから。今日の時間を自由に過ごせるのだから。

死に翌日などない。


*今日を、今日だけ楽しむ。今日を今日だけ一生懸命に生きる

これなのだ。

昨日に煩わされるな。忘れてしまえ。許してしまえ。

思いだし「怒り」をするメリットなどない。

記憶喪失になってしまえばいいのだ。

昨日の自分は死んだのだ。今日は今日の新たな人生なのだ。今を、これからを如何に楽しむかだけを考えればいい。過去はどうでもいい。死んだ自分なのだ。

*未来への備えはあった方がいい。だが、未来を憂いでもしょうがない。神様に丸投げでいい

人はいずれ、本当に死ぬ。ではいつですか?分かりません。今日の帰り道かも知れないし、医者からの宣告後の数ヶ月後かも知れない。分からない。

知っているのは神様だけだ。それを人(あなた、私)が知るだけだ。

キリスト教的には、生まれも死も、神様のシナリオ通りなのだ。偶然すらも神様のシナリオ通り。だからラッキーを神に感謝する。人に感謝する。それを知って良き側にいられる自分の幸運を、誰かに感謝せずにはいられない。それがキリスト教徒なのだ。

神と、人とに、感謝。

*もちろん、望ましくないことも起こる。

それも神様のシナリオ通り。そこで苦しむのも、シナリオ通りなのだ。だからこそ、苦しむべき時にはもがくべきだし、逆に楽しいことは感謝で満ち足りるべきだ。

だが、辛い、苦しい、そういうものは全て祈りと共に神様に丸投げしていい。それも神はお分かりなのである。祈りによって、ご自身が救われるなら、それこそが辛い中でも神様からの祝福なのです。

祈るだけで心が軽くなって、その日の眠りにつく瞬間が安らかならば、それは立派な信仰の効能だと思うのです。

*苦楽が全て神様のシナリオ通りなんて、やってられない

若い頃、私がキリスト教に触れたときに思ったこと、それだ。何でもかんでも最初からシナリオが用意されていて、自分がその上を走っているだけなんて、息苦しい。そんなの嫌だ。俺は俺で自由なんだ!とね。

でも、人生を歩んでみると、不可解な、説明できない偶然で、良くなったり悪くなったりする。危機一髪だったり、逆にちょっとタイミングがずれればこんなことにならなかったのに、ってね。

その偶然はどこから来るのか?

説明できない。偶然で割り切ることができないことも多い。そんなとき、信仰心があれば、多少は理解しやすくなる。私の場合は、たまたまキリスト教だっただけだ。聖書の教えだっただけだ。

*全ての偶然は、神様からの祝福である、と。

良き行いを重ねた者には、良き祝福を。

悪しき行いを重ねた者には、戒めを。

どちらも、偶然という形で表現されるだけである。信仰心の有無で解釈の仕方が変わるだけで、事象は変わらないみたい。と書くと、若干宗教臭い(笑)

けれど、そう考えることで、今後の人生の振る舞いを良き方向に修正できるならば、やはり信仰はご自身の人生を良き物に変えるだけの価値はあると思うのです。

*謙虚さ

もしあのときこうしていなければ……。

謙虚さはそこにいつもアラートを発してくれる。謙虚でいるということは、小さな気付き、ヒント、警告を敏感に察知するための手段であるということに。故に聖書では、謙虚さの大切さをたくさんのお話で伝えてくれている。

そもそも聖書は、謙虚さを持って学べば気付くし、単なる読書として読めば何にも気付かない。

謙虚さのアンテナの感度を高めるためには、心の中にいる聖霊の心の声に耳を傾ける感度を高めることだ。そのためには、信仰心としての自身のピュアさ、謙虚さを育てなければならない。

「偶然でしょ?たまたまでしょ?」それで片付けられれば楽だ。だが、それが、大切な人の生き死にに関わるかも知れないタイミングでの判断だったならば、それをアナタは本当に偶然の一言で済ませられますか?済ませて後悔しませんか?

そういうことです。普段の何気ない判断の中に、そういう重要なことが隠されていることに気づけるかどうか。

謙虚さは、その感度を高めてくれます。

その謙虚さを高めるためには、残念ながら「俺様教」では足りません。たかだか数十年の個人の経験からなる信仰は、信仰ではなく、単なる経験値でしかありません。数千年の時を経て沢山の人の「そうだよね」を語り継いだ信仰=宗教を、きちんと心の真ん中に据えた方が、真理が見えやすいと思います。私の場合はたまたま聖書の教え=キリスト教だっただけです。別に何教でもいいです。心の真ん中に据えることができさえすれば。

それがない人のブレブレ感に比べれば、安定度が違います。

過去の私と、今の私とを比べてみての結果です。断言できます。心の中にきちんとしたコアがある人とない人との差は、間違いなく信仰心の有無です。これは断言できます。俺様教は、フェイク。弱い。実は簡単に論破されますが、認めたくないが故に謎の理論が登場します。意固地になります。結果、悪い選択をします。あちゃ~。謙虚さがなくなってしまったが故、です。素直にきちんとした信仰を持てばいいだけなのですが……。

これ以上は宗教臭いので止めます(笑)


*自分自身の過去と経験だけではない「きちんと信じられる別の何か」を持て!

今回の結論はこれ。別に何でもいいです。ですが、それはご自身の経験・知識に基づくものではないことが条件です。

「ご自身の経験・知識に基づくもの」を信じて突っ走れるのは20代までです。30代以降は、「どうもそうではないらしい。では何を信じるべきか?」という迷いに突入します。なので、若いうちから自分以外に信じられるコアを持てると言うことはそれ自体が幸せなことであり、神様からの祝福だと思います。それを説いてくれるご両親がいる場合は、とてつもなくうらやましい(笑)

私の場合は聖書の教えでしたので、特に新約聖書の福音書をオススメする以外に手はありませんが、このメッセージ自体が心に届く人と届かない人がいるでしょう。それもまたしょうがないことです。

聞く耳を持つ人にだけ届くように書かれているのもまた、聖書です。

昨今では、上馬キリスト教会様の活動によって、比較的ゆるくキリスト教っていいかも?という間口が広がっていることに、感謝いたします。(もちろんそれが聖書の全てではないですが、間口が広がることはいいことです。)


*愛する者を失いかけて、誰に祈るか?

そしてその祈りが受け入れられた結果、誰に感謝すべきか。信仰があればその対象があります。信仰がなければ、全て「偶然」の2文字で片付けられるだけです。

あなたにとってどちらが良き人生ですか?それだけのことです。


説教臭いのは嫌なのでこの辺で。


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今回の創作活動は約30分(累積 約1,214時間)
(368回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊