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(聖) 一緒にご飯を食べていたいと思える振る舞いですか? (聖書の学び 36)

(約 4,900文字の記事です。)

別にキリスト教でなくても何でもいいとは思うが、心から信じられる宗教を持っている人は幸せだと思う。私もかつては無宗教であり、強いて言えば「オレサマ教」だったわけだが、聖書の学びを中心に据えるようになって、色んなことの判断基準が定まったように思う。

「オレサマ教」は日本に約1億2千万種類もある

無宗教というひとくくりは、結構乱暴で、それでも各自が各自の「こうあるべき」という何かしらの信念を持って生きていると思う。ただ、それの多くは、せいぜい100年以内の新興宗教の内容だったり、たかだか数十年の「自分の体験」という、極めて「頼りない何か」で構成されたモノではないだろうか?

かつての自分は、その通り、謎の「オレサマ教」の教徒であり、教祖も信者も私一人だ。そして、そんなオレサマ教が日本に単純計算で1億2千万種類もある(笑)

とはいえ、オレサマ教の場合にはコアが薄っぺらいので、ちょっとしたことでぶれたり、悩んだり、書籍などで仕入れた新たな知識とこれまでのオレサマ教の信条とが矛盾したりして、迷路に迷い込む。

これに対して、千年以上も語り継がれてきた宗教には「確かな何か」があると思っている。

信じる教えの中で、あるは経典の中でもっとも大切な一言、フレーズ、教義とは何ですか?(あなたの思う・考えるではなくて、その信仰の中で説かれている内容でお答え下さい。)もしあなたの思う・考える範囲内でしか答えられない場合には、それは本当に信仰なのか見直す必要があるかも知れない。

少なくとも聖書の教えは2,000年以上も語り継がれてきたことは間違いない。その間、民族、国家、性別、年代を超えて何十世代も語り継がれてきたわけだから、信頼に足る、と思っている。

ま、何を信じるかは個人の自由ですが。。。


その振る舞いは正しいの?「神様が見たらどう思うのか」というのが一つの基準

嘘をつく、大声を上げる、恫喝する、嫌みを言う、意地悪をする、陰口、意見を押しつける、etc……。どんな宗教を信じても、悪いことだと分かっている人が多いと思います。ですが、実際、あなた自身、何かの拍子に、意図的にそれを他人にやってはいませんか?

「相手が悪いから、相手が間違っているから、そういうことはしてもいい」のでしょうか?

聖書を学ぶ者としては、例えば一つの視点・考え方の視点としては「その行動や振る舞いを、神様が見たら、なんて言うだろうか?褒めて下さるか?悲しむだろうか?」これが一つの答えになっていると思っています。

たまにだったり、言うべきとき、怒るべきときならば、声を荒げる必要もあるでしょう。ただ「常にそうする人」もいて困るよね(笑)

もちろん聖書の中でもイエス様は、怒ったり、大きな声を出したり、こそこそ逃げたり、無言のまま去ったりしています。そういうことはやっていいことだと分かります。だって神様の振るまい(と同じ振る舞い)なのだから、まねしていいし、「採用してもいい行い」なのです(笑)

だから、場合によっては議論から逃げてもいい。けれど、言うべき時には意見を言う必要があり、自分の権利を守るためには戦わなくてはならない

相手が強気できたらこちらも強気になるべきであり、大声に対しては大声で対処してもいい。


ですが、こちらから相手にアプローチする際に、人を欺く、大声を上げる、恫喝する、嫌みを言う、意地悪をする、意見を押しつける、という行動は、取るべきでしょうか?止めるべきでしょうか?


善い行いには祝福が、悪しき行いには辛い報いが用意される

神様は全て見ており、全て知っています。全知全能ということになっています(笑)なので、神様には嘘が通じません。聖書の学びでも、基本的には嘘は許されません。例外として、心からの反省があれば、何度でも許す(赦す)ということになっています。が、心からの反省かどうかもまた神様はお見通しです。欺こう(あざむこう)とする姿勢があるならばもう、悪しき行いですね。更に重いペナルティーがあること間違いなし(笑)

神様は必ず、善い行いには祝福をお与え下さいます。逆に悪しき行いには必ず辛い報いを用意して下さいます。そして報いは受け取り拒否できません。必ずご自身に返っていきます。

ま、そう考えるのが私の宗教なのですが。

そして結果として、聖書の学びによって、やっていいことと悪いことがハッキリと分かり、意識して「やってはいけないこと」をやらないようにして生活することで、周りに良い影響を与えることに「も」なります。そして人生がよい方向に少しずつ変わっていく、と思ってますし、実際にそういう体験もしているので、ますます聖書の学びを守って生きていこうと思ってるわけです。


さて、ちょっと別の視点で。

それ、美味しいご飯を食べているときに言うことか?

人は、他人の噂(うわさ)話が好きな生き物で、特に女性はその傾向が強い気がする。色んなネタがあって、陰口だったり、他人をけなしては話の花を咲かせていることもある。

そういう話の中身だが、それ、もし、かつて食べたことがないような「とても美味しいご飯」を食べているときに話したい内容ですか?

多分違うよね?もっと楽しい話題でお話ししていると思うよ。

ならば、その話、しない方がいいじゃない?話をして楽しい内容と、他人をさげすんでストレス解消しようとする下品な内容、どちらがいいと思う?

良い悪いの話になると個人の価値感に関わる。そして価値感は信じる宗教からの影響をとても受けるものだ。

当然、オレサマ教の場合も本人の価値感に多大な影響を与える。

私の場合「もしその話を神様が聞いたら、喜ぶか?悲しむか?」と考える。答えは自ずと定まる。そしてそれを話すべきか止めるべきかの判断は、心の中の聖霊さん(良心というヤツw)と相談して(自問自答して)決めればいい。おそらく聖霊さんもまた「やめとけ」と言うに違いない。

だがこの考え方は聖書を学んだ場合であって、各種のオレサマ教徒には「気分が向いたら何でもOK」という教義もある「かも」知れない。何を信じるかは自由だ。

結局は各自の価値感しだい

結局、各自の価値感によって、振る舞いが変わってくるし、信じるモノがしっかりしていないと価値感もまた変わっていき続けるわけ。だからこそ、

「ぶれない本物の
宗教・信仰心から導かれる価値感」

これこそが重要だと思っているわけです。


あ、別にキリスト教がど~のこ~のとか云々言いたいわけじゃなくて、信じるモノはどんな教えでもいいと思うのです。ぶれないモノであれば。(ですがあえて私見を言うならば、その最低条件としては数百年以上の歴史があるモノであるべきだとは思います。そうでないとぶれやすいので。)
ここまでは例えとして聖書の学び(キリスト教)の話をしただけです。念のため。。。


聖書から学ぶ「やっていいこと・わるいこと」の線引き

本当はもっと深い内容も書けるのですが、その内容は、聖書を学ぶ者と学んでいない者とで「伝わるものも伝わらない」気がするので、書くのは止めることにしました。ですが、聖書を学べば、やっていいこと・悪いこと、なぜなのか?がおぼろげながら分かるようになりますし、それが分からなくても、聖書で「やってはいけないこと」と言うのは、絶対にやっちゃいけないことなので、ダメなのです。理由は明記されていなくても、数少ない「聖書でNGな行動」については、とっても重要だからこそ「ダメ」と明言されている内容だと思うので、深く考えずに「やっちゃダメなことなんだ」と信じて、やらないほうがいいのです。


オススメは新約聖書のヨハネによる福音書、それ以降は戻って新約聖書の最初からざっと眺めることです。


そして実は、多くの場合、著者が海外の人の自己啓発本の多くは、根幹はキリスト教の考え方がベースになっています。私の場合ですが、フランクリン・コヴィーや、デール・カーネギーの著書の内容は、聖書を学んで初めて見えてきた「共通性とその本当の意味」というのが分かるようになりました。貫かれている根本的な教えはすべて同じだったわけです。

そういうことから考えても、聖書を学ぶことによって自分の精神を安定させ、他者からの謎の影響による自分自身を不安にさせる要素を排除するための考え方・基準を手に入れることができるのが、聖書の学びの効果だと思っています。その効力が2,000年間も支持されているお墨付きの「人生教本」です(笑)


はい、だいたい言いたいことは言いました(笑)スッキリ。ここからはオマケです。

議論とけんかは違う(議論を有利に進める技術は必要)

勘違いしてはいけないのは、聖書の中にも資本主義の重要な考え方の「正しい姿」が記されている点。手に入れたお金は(運用して)増やすことを良しとしており、減らすこともだめだし、増やしもしないで抱え込むこともだめだと書かれています。

このことから派生して考えると、神様が悲しむような悪事を成さない限り、実は「自分自身が有利になるように物事を運ぶこと・利益を出すことは正義であり、むしろ成すべきこと」ということになります。

悪事を成してはいけないが、悪事にあたらないことであって自分自身に有利に物事を進めることはむしろ推奨される、という視点の重要性。この辺を勘違いしてはいけない。

論争であったり戦いであったり、こちらが攻める場合には相手の最も弱いところを全力で攻める。これがセオリーです。容赦するとかしないとかではありません。一撃必殺で勝負を決めることが、お互いのためになります。弱点を見つけつつも攻めないのは、本気で勝ちに行くつもりがないのであり、それは真剣勝負という場において、ある種の欺き(あざむき)といえます。そんなことをやっているうちに逆に相手がこちらの弱点を見つけて一気に攻めてきて、形勢逆転なども有り得ます。

自分が手加減したとしても、相手が容赦してくれるとは限らない。


なぜ蛇足気味なこの章を追加したかというと、「何でもかんでも相手の気分を害さない話題を探すこと」というのもまた、自分自身を疲弊させるだけの、あまりよくないこと、ということを示すためでした。相手の顔色をうかがいまくることも、結果として自分が疲弊するので、いいこととは限らない。適度なバランスでいい。なんならやらなくてもいい。

そしてもし相手と対立することになったとしても、自分の正義を貫くためであれば、それが正しいことだと心から思えることならば、争うしかない。白黒ハッキリ付ければいい。

結果、より良い「次の新たな人生」が広がっていきます。

なんでもかんでも「なぁなぁの事なかれ主義に常に走る」と、神様はそれ見て、さすがにしかめっ面をするかも知れません(笑)それはつまり、故意に自分自身に嘘をつき続けていることになるので、いずれ報いが与えられるわけです。

基本的に良い振る舞いを心がけつつも、正義を守るために戦うべき時には戦うことを恐れてはいけません。対立を恐れて自分を押し殺し、自分に嘘をつき続けることの方が害が大きい。議論において自分自身の主張ができないことは、害悪です。内容の真偽とは別に、どう思うか・考えるかを主張できない人はとても弱いのです。弱い者は強い者の言いなりになるしかありません。結局、いい様に使われるだけなのです。

それは良い人生とは言えない。神様もそれをお望みではありません。


実は、やっていいこと・悪いことをきちんと明確化して自分の基準にすることで、自分の振る舞いに自信が持てるようになり、結果、対立も恐れず、言うべき時には言うべきことをきちんと主張する、という強い自分を作ることができます。これが生き方の自信につながり、ぶれない自分を作る土台になります。


そんな効果が聖書にはあります(笑)


今回の創作活動は約1時間30分(累積 約2,359時間)
(626回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊