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自分の人生を生きるために犬を飼うという選択

「お前が犬を可愛がってる姿が想像できんわ!」

って、友達がめちゃくちゃ失礼なことを言ってきやがって、僕は全力で「まじで、それよ!」とか言いながら、ちょこちょこ走り回るその子犬を慣れた手つきで抱きかかえる。

「ほらー知らないおじさん来たねー」ってそいつに手渡したりなんかしてて、その違和感がめちゃくちゃ変な感じで、でもそれが心地よかったりする今日この頃。


自分が犬を飼うなんて思ってもみなかった。

それは犬が好きとか嫌いとか、お世話ができる、できないとか、そういう話じゃなくて、単純に「犬を飼っている自分」、「犬と一緒に生活している自分」を想像できなかったから。

「ペットがいる家庭」って、テレビとか映画とか、どこか物語の中の話で、自分とは関係ないところにしか存在してなくて、いつからかはわからないけど、どこかで

「人生でペットを飼うことはないだろう」

という固定観念みたいな絶対的自信みたいなものがあった。


生活が豊かにならない。

「犬を飼う」ことを想像し始めたのには大きく二つ理由がある。

一つはどれだけお金を稼いでも、自分の生活が豊かにならないなーって感じたこと。

したい仕事をする!したくないことはやらない人生を送りたい!って息巻いて、大学卒業から一度も就活をせずにフリーランスのライターになって、なんやかんやで27の時に自分のカフェをオープンして、なに不自由なく、むしろ順風満帆に人生を進めてきた。

カフェも軌道に乗ってきてお客さんも増えて、ようやく「したい仕事」に「収入」が追いつくようになってきて、使えるお金がちょっとだけ増えたんだけど、なんだか何も変わらない。

もともとお金そのものよりも、価値を作るというところに面白さとか喜びを感じてるから、その結果としてついてくるお金に関しては、まぁ不自由ない生活ができるくらいあればいいかって感じだった。

欲しいものとか、行きたい場所とか、食べたいものとか、物欲があんまりないのはお金がなかったからというよりも、仕事の内容とか仕方とか、生き方とか、どちらかと言えばお金を生み出すことの方に興味があったからだと思うんだけど、

ふと自分のことを客観的に眺めたときに、あれ、俺何で頑張ってお金稼いでんだろ、稼いだお金でそれ相応の幸福を購入できてんだろうか?って考えて、

もっと自分の生活にお金を使ってもいいんじゃないか、いや使うべきだ!って思ったのが、犬を飼おうかなって考えた理由の一つ。

稼いだお金はしっかりと自分たちの生活に還元して、ちゃんといい暮らしをしよう!犬を飼うことはメリハリのない今の暮らしにいい刺激になるし、何より癒しになる。

頑張って仕事をしたなら、頑張った分、癒しがあってもいいじゃんかって思えるようになった。

他人の人生を生きても幸せにはなれない

不幸にならないための最も効率的な行動は、幸せを求めないことだと思う。

告白しなければフラれることはないし、挑戦しなければ失敗することはない。

犬を飼わなければ、いつか絶対に訪れる「死」という悲しい別れの瞬間に立ち合わなくて済む。


僕らは日常的に誰かのほんの一部分だけが切り取られた物語を見て、いいなーとか、みじめだなーとか、馬鹿だなーって一喜一憂してて、その短い時間だけ自分の人生から離れて物語の主人公と自分を重ね合わせてその感情を共有する。

まるで自分がその主人公になったような気持ちになる。

物語の主人公が幸せだろうが、不幸せだろうが自分の人生は何も変わらないのに、その誰かの人生を生きた気になって、幸せを感じたり不幸せを感じたりする。


自分の手で撫でていないのに、自分の手で抱きしめていなのに、自分の手で糞の処理をしていないのに、たった何秒かの動画や、たった何枚の写真を見るだけで犬を飼ったときの幸福を手に入れたつもりになる。

幸も不幸も水で何倍にも薄めて、その上澄みだけをすくって飲んでるようなそんな誰かの人生を生きてても生きてる実感なんてないし、何も残らない。


犬を飼うことで生活のリズムは絶対的に変わるし、そのことによって障害とか不都合が生まれる。

そして死という不幸はいつか絶対的に訪れる。

だけど、その不幸の上に、その何十倍もの幸せがあって、癒しがあって、それが自分の人生を作ると思う。


そういうわけで僕は、自分の人生を生きるために犬を飼うという選択を取った。




という御託をいろいろと並べてはみたものの、純粋にやつが可愛くて仕方ない。

まじ、きゃわたん。

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