幸福な束縛

 結婚の約束までしていたのに彼は突然私の前から消えた。

 引っ越してきたばかりの2LDKの部屋、お揃いにしたお茶碗、まだほどきかけのお互いの荷物が入ったダンボール、そのどれもが彼の不在と同時に意味をなくし、今や私の存在さえもそれらと等しいものになっている。

 私の何がいけなかったのだろう。
 いや、元々がいけないところを数え上げるよりも、良いところを上げていくほうが早く済むような私なのだから、こんな結果になるのは当たり前のことだったのかもしれない。

 自分がいけない人間であると自覚していたからこそ、彼とうまくやっていくために努力もしていたつもりだった。
 寝ていたいのを我慢して早起きし彼のために朝食を作った。服装や髪型も彼の好みに合わせて変えた。嫉妬深さを隠して飲み会にも笑顔で送り出した。
 思い返せばささいなことばかりで、こんなことを恩着せがましく並べるのも恥ずかしい。だけど、彼は私のそんな小さな努力を認めてくれていたと思うし、私が本当はわがままでなまけもので束縛心の強い女だとも分かってくれている上で、私のことを愛してくれていたはずだった。
 これからもきっと私たちは良い方向へ進んでいくはずだと感じていたのに、突然、行き止まってしまった。

 引っ越してきた夜、部屋のベランダから都庁にかかる満月を彼とふたりで眺めた。
 私の心はしあわせな気持ちで満たされていたけれど、今思えばあの月は、今後の私たちの姿を暗示していたのかもしれない。
 月はどこか、しあわせと似ている気がする。
 追いかければ逃げて行き、満ちては欠けていく。
 私はひとりで、痩せていく月を眺めながら、彼のことを想い続けた。

 自罰的な夢を見た。現実は自己嫌悪に苛まれた。
優しい友達の声や、ネットで手軽にできる無責任な占い、そして槙原敬之のラブソングが私の心の痛みを少しだけ和らげてくれた。

 「どうしようもない僕に天使が降りてきた」
 いちばん好き。

 ストーリーのある曲で、同棲している恋人同士の喧嘩の顛末が歌われている。
 
 昔の恋人からもらった目覚まし時計を使い続ける彼氏にずっと腹を立てていた彼女がとうとうある晩、ブチギレる。
 彼氏の部屋で癇癪を起こした彼女は怒りの矛先を枕にぶつける。歌詞の中では、枕の中に詰まっていた白い羽根が飛び出し部屋中に飛び散った。
 白い羽根は彼女の髪の毛や衣服にまで飛んで、彼氏はその姿を天使とたとえる。
 彼女の嫉妬心と愛憎、そして彼氏がそんな彼女の気持ちを包容する力を持つまでを描いたラブソングで、この修羅場はハッピーエンドで終わる。

 私の現状にはまったく当てはまらない曲だけど、だから惹かれる。こうなりたい。こうなりたかった。料理なんてしないはずの彼の家にあったルクルーゼを割りたかった。捨ててきて欲しかった。そうしてくれないなら私が投げ捨てて、逃げるのを追いかけて欲しかった。私をなくすことをおそれられたかった。それで、私をつかまえたことで、満たされてほしかった。

 いちばん好きな曲の中で、恋人たちの間に起こるときたまのトラブルやぶつかり合いは、「天使の悪戯」とも歌われている。そういう気まぐれめいたハプニングによって、お互いへの理解が深まり、絆は深まっていくのだろう。

 私の前から彼がいなくなってしまったことも束の間の天使の悪戯だったらいいのに......そんな痛々しいことを考えながら私はその日も、リピートモードで槙原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」を聞いていた。
 マンションの火災報知器が鳴っていたことにも気付かずに。

 火事がどこで発生したのかは分からない。
 異変を感じ取ったときにはもう、玄関のドアをくぐって部屋に煙が侵入してきていた。
 私が逃げるのをためらったのは、単純な恐怖もあったけれど、このまま死んでしまうのも悪くはないかもしれないという気持ちがあったからだったと思う。

 私に降りてきたのは、ずいぶん悪趣味な悪戯をする天使だった。そんな自嘲が浮かんで、そのあとは記憶がない。

 マンションの窓から火が噴いているのが見える。
私の身体は部屋の外に移動している。どうして自分が自宅の前の道路にいるのか分からなかった。今ここにいるのに、「今ここ」の感覚がすっぽり抜け落ちてしまっている。現実感がなかった。
 私は、男の人に抱き抱えられている。それが彼の腕の中だと気づいたときに、自分は死んだのだと思った。
 
 彼のあたたかくて大きな手のひらが私の頬を撫でる。何度も私の名前を呼ぶ。懐かしい声。それが繰り返されて、次第に、私はそれが「今ここ」で起こっていることだと理解できるようになる。これは現実で、生きている私は生きている彼と再会している。
 身体が熱くて痛くて呼吸をするのが苦しくて、ああ、生きてて良かったと思った。

 あとから聞いた話によれば、火事は私たちの隣の部屋が火元だったらしい。
マンションの修繕には時間がかかるようで、私たちはまた引っ越しをすることになった。
 「一緒に新しい部屋を探そうね」そう、彼が言ってくれた。 また、ふたりで一緒に住む部屋だ。今度は長く、ずっと長く一緒に住む部屋。

 火事があった日の夜、彼はもう一度私とやり直す決意を固めてマンションに戻ってきたのだという。そして私を助けたあとで、彼は私に銀色に光る輪っかをくれた。左手の薬指に、それを引っ掛けた。
 悪戯好きの天使のシナリオは、出来すぎていて笑ってしまう。

 しあわせが月のようだとすれば、それは追い求めては逃げ、満ちては欠けていくものなのかもしれない。
だけれど、今夜も空に月はあって、「今ここ」に満ち足りた気持ちは確かに存在している。
 月を手中に収めることはきっと不可能なのだろうけれど、誰の手のひらよりも広い空から月はやさしい光で誰のことをも照らしてくれる。
 私は、自分の薬指にかけられた銀色の輪っかに視線を落とした。輪っかはいくつも連なっている頑丈なチェーンで、それは私の薬指から道路にまで垂れ下がっていた。その鎖を見て私は、彼が確かな理由があって私の前からいなくなり、そして確かな決意を持って私のもとに戻ってきてくれたことを悟った。

 彼は私の前から消える直前にきっと、引っ越したばかりの新しい部屋で荷ほどきの途中に私の秘密を見つけてしまったのだ。コレクションしていたぎっちりと重い金属製のチェーンの束、南京錠付きの手錠、猿轡、アイマスク、革のコスチュームに、黒いガムテープ、医療用メスと針、私の「作品」である緊縛写真を収めたデータ集。
彼は、私が他人を縛り拘束することに興奮を覚える性的嗜好の持ち主だということに気が付いたのだろう。 ことに鈍い銀色のいかにも重量感のある金属製のチェーンで身体中を拘束された人体の無機物と有機物との妖しげな融合は私の官能を激しく刺激する……という嗜好まで見抜いてくれたようだ。

 彼のくれたチェーンは素材が軽く光沢も少し強いため軽薄な印象で私の好みだとは言い難いけれど、そういう趣味とは縁遠い彼が私との新たな一歩を踏み出すために懸命に選んでくれた気持ちを尊重し、大切にしたいと思う。 
 結婚を約束した恋人が隠していた秘密を知った彼が戸惑いと愛情のはざまで苦悩し逡巡する姿を想像すると非常に心苦しく、ありがたくもあり、そして密かに興奮さえもしてしまうけれど、今は、これから私が彼を緊縛するチェーンよりも、固い絆でふたりが結ばれるようにと、悪戯好きの天使に願う。

サポ希望