見出し画像

好きな話、思い出す必要のない夏の思い出。

夏になると思い出す、思い出す必要のないアウトな思い出の話。今年も思い出したので、たぶん毎年思い出してしまうんだと思います。ホラー、怪談話といってもいいかもしれません。それはそれはとても暑い、夏の日のことでした…。

6年前の夏、当時住んでいた明大前駅の前には喫煙所があり、そこによく、一人のおじさんが立っていました。お年は50過ぎくらいで、ポッコリとお腹回りは肥え、決してイケているおじさんではなく、でもいつもニコやかにそこに立っていて、この「立っている」というのも、別に、何かの役割を担って立っているわけではなく、ただただそこに「立って」いて、いつも少しだけ揺れていました。

自分の中で、名物化していたそのおじさん。そんなおじさんがある日、「KISS」のバンドTを着て揺れていまして。

KISSのメンバーがデカデカとプリントされたTシャツ。下北・高円寺エリアで若者が着ていそうなソレです。ポッコリお腹のおじさんが似合うものではないですが、おじさんは「KISS」のメンバーにお腹をおさえてもらう形で着こなし、はしゃぐ面々とは真逆のテンションで、その日も静かに揺れていました。

と、そこに、女子大生が7、8人改札から出てきまして。

その中の一人が「ビートルズ」のバンドTを着ていました。この時、おじさんの揺れがピタリと止まりました。「あ、止まった…」僕は思いました。おじさんの視線の先にはビートルズの女子大生。ここから、怖い時間が流れ始めました。

「駅前にたむろして話す女子大生、を、ジッと見つめるKISS Tのおじさん」の構図は、肉親でもない限り超危険です。サバンナのシマウマを見つめるライオン的な、でも見た目はナマケモノっぽい、なんならナマズっぽいおじさんが10mほど離れた距離でビッタリと見つめています。「このおじさんはいったい何を考えているのだろうか」と眺めていると、しばらくして、おじさんが少しずつ、女子大生軍団に近づき始めまして。非常に危険な行脚です。しかもその歩みは本当に少しずつで、約一足分ずつ、ペンギン歩きのような形で、着実にKISSがビートルズに近づいていきます。このまま本当に危険行為に走ったらまずいと思い、関係のない自分も熱視線で見守ります。

すると、ある程度進んだところでKISSの前進が止まりました。どうやら、手前にいた女子大生に気付かれたようでした。何のバンドTも着ていない女子大生がKISSを睨んでいたのです。蛇に睨まれたカエル。JDに睨まれたKISSおじ。誤魔化すことなく、とりあえず止まってしまったおじさんは、体勢も距離感も中途半端で、とても居心地の悪そうなことになっています。これは明らかに変です。「私は興味ありませんので」みたいに取り繕う器用さは、おじさんにはありませんでした。見つめ合う二人。ただただ緊迫した空気が流れます。と、ここでおじさんが動きました。女子大生達に体の正面を向けたまま、同じ歩幅でバックし始めたのです。それはそれは奇怪な光景でした。KISSのバンドTを着たポッコリお腹のおじさんが、初めてのムーンウォークみたいなぎこちなさで駅前を移動しています。異様です。明大前アラートです。何かの撮影なんじゃないかと思うような状況に、先に気付いた女子大生が皆に伝え、女子大生達の視線が一気におじさんの方を向きました。おじさんがまた動きを止めます。再び中途半端な距離感で、おかしな体勢で動かなくなったおじさん。女子大生達もその様子を、声を上げることなく、分からないままに見つめています。どうすんだよおじさん。そもそも近づいてどうする気だったんだよ。全体的に怖すぎるんだよ。また固まっちゃってるけど。すると突然、おじさんは前かがみになって、グーっと背中を丸め始めました。肩をすぼめ、お腹を凹ませ、できるだけ体をたたんで、スキーのジャンプ前みたいな体勢になるおじさん。「なんだ?」と思って見ていたら、次の瞬間おじさんは、今日初めて発する声で「うんっ!!」と言いながら、一気に胸を張り、お腹を膨らませました。

言葉を失いました。唖然とはこのことです。「うん!」じゃないよ。なんだよそれは。あんまりにも分からないよ。一連すべて説明してくれよ。ポッコリと出たお腹でKISSのメンバーの顏が歪んでいます。それほどKISSをアピールしたかったのか、それとも単純におじさんのネジが飛んだなのか、不可解過ぎる行動に女子大生達は引き倒してあっという間に逃げていきました。思い出す必要のない、だけど思い出してしまう超アウトな思い出です。


あとついでに同じ時期、同じく明大前駅前で、パンツとハイソックスだけを身につけ、革靴を履いたおじさまが、まるで高級スーツでも着ているかのようなキリっとした姿勢でズンズンと駅前を歩いてきて、そのまま駅の改札の中へ入ろうとしたら駅員に止められていたのも合わせて思い出しました。あまりの凛々しさに、着ていないのが嘘なんじゃないかと思ってしまうくらい立派な歩みでしたが、当たり前の出来事でした。どちらも暑い夏の思い出です。


#ラブレターズ #夏の思い出 #ホラー #怪談

この記事が参加している募集

夏の思い出

少しでも感想、応援いただけたら嬉しいですし、他の記事も合わせて読んでいただけたら最高です!