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「絶歌」問題と出版社の役割

手記「絶歌」出版については、気になっている点が3つあります。

1つ目は犯罪者が自分の罪の悪評を活用してビジネスをできてしまうことの是非。刑罰などの持つ抑止効果が薄れる上に「箔をつけるために犯罪」を生みかねないので、懸念される点です。これに関連して「『サムの息子』法」が大原ケイさんの「犯罪のメモワール出版はどこまで許されるのか」で紹介されています。米国で連続殺人を犯し、マスコミや警察に「サムの息子」を名乗る手紙を送りつけたデビッド・バーコウィッツの事件がきっかけになったもので、次のように紹介されています。

起訴された事件の犯人が著作者となるかたちで、その犯罪に関するネタで本、映画、テレビ番組が作られた場合、法廷がその者が受け取る収益を差し押さえることができるというもので、多くの場合、犯罪の被害者や遺族の訴えがあれば賠償金として使われます。

2つ目は被害者や周囲への影響。これについては被害者遺族が出版社に送った抗議文で充分に言い尽くされていると思います。

3つ目は著者への影響。担当編集者へのインタビューを読むと、「大きな直しは個人が特定できる部分を削ったりとかぐらい」と著者の特定を避ける配慮をしたようです。しかしネット上では身元捜しが過熱していて、著者の社会生活の維持の益になるのか害になるのか、気になってしまいます。

懲役刑というものには、犯罪を割に合わないものにする「抑止」や、再犯防止と社会復帰を図る「矯正」などが目的にあるそうです。そのための諸々は、社会が安全のために払っているコストです。今回の出版は、刑罰の犯罪抑止効果が薄れることと社会復帰した人の生活維持に障れば再犯防止が危うくなること、社会の安全に関わるリスクがあるように思うのです。

「サムの息子」法を起点に考えていくと、出版社が抗議や提訴のリスクを覚悟したからOK、ではなくて、社会も安全のリスクを負わされてないかなと思います。強い言い方をすれば、ブラック企業批判のひとつに「被雇用者の生活保障や福祉などのコストを社会全体に押し付けるフリーライド」というものがありますが、今回の件は「社会の安全のためのコストを押し上げて社会全体に押し付けるフリーライド」ではないかという角度でも気になるわけです。

著者が手記発表を志すのも、出版社が利益を上げるのも認められるべきだと思うんですよ。そして手記発表自体には少年犯罪心理を知るための資料価値などの指摘はあり、それも一面の事実でしょう。でもそれはあくまで「手記発表」で達成された話で、書籍出版の形にしたことの価値ではないように思います。そこで事前に遺族との間を調整したり、印税について納得性の高い形を整えたりといった「出版の影響を社会と摺り合わせる」ところに出版社はそのプロフェッショナルを発揮できた気がします。

それを通じて社会がニュートラルに資料として手記を受け止められる状況の中での「手記発表」を実現させてたら、それこそが出版のプロのお仕事だったんじゃないかと。そしてプロのお仕事が果たされたなら、そのときは報酬があるのが当然だと思えます。

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