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リモートワークと安部公房

オフィスのない会社であるソニックガーデン社長で、「リモートチームでうまくいく」の著書もある倉貫義人さんが、Facebookにこう投稿されていました。

なんとなく気付いてきてると思うけど、リモートワーク(テレワーク)を始めると、移動と場所が要らないから、打ち合わせや取材のアポが相当に早く決まるようになる。これまで以上にビジネスのスピード感が増したと感じるはず。だけど、同時にこの状況はとても疲れるので、意識して休憩の時間を入れていかないと潰れてしまうので気をつけて。仕事の合間に近所の散歩とかオススメ。
倉貫義人 - Facebook

どこかで聞いた話と似てると思って記憶(というか読書記録)をたどってみると、出てきたのは安部公房。1984年11月に出版された「方舟さくら丸」はワープロを使って書かれた最初の小説とも言われています。大作家の7年ぶりの最新作ということでこの時期、公房は多くのインタビューを受けていますが、必ずと言っていいほど著作のことだけでなくワープロのことについて質問を受けており、はてはこんな話題まで振られています。

――企業のOA化は、単に機械が扱えるかどうかという問題だけでなく、テクノストレスといった心の問題も生んでいますが……。
(初出:「生きることと生き延びること」新潮45 1985年1月号/安部公房全集 28 所収)

公房はこう応じます。

効率が上がるために、働き過ぎ、オーバーワークになることは事実でしょう。例えば、自動車で一定時間走るとして、高速道路の方が一般道路より疲労度が大きい。それと同じで、機械作業の方が手作業より、同一時間働いても疲労する。手作業の場合、自分で無意識のうちに集中したり休息したりして、セルフ・コントロールできるけど、機械だととことんやってしまう。OA化によって生産効率が高くなれば、それなりに労働時間を短縮しなくてはいけない。従来の労働時間のままでは、疲労はどんどん蓄積していくと思う
(初出:「生きることと生き延びること」新潮45 1985年1月号/安部公房全集 28 所収)

会議のための移動や前後数分のバッファは、ある程度生産効率を犠牲にする代わりに「無意識のうちに集中したり休憩したり」につながっていて、それがなくなると「とことんやってしまう」ことになるのかもしれません。それが倉貫さんの言う「この状況はとても疲れるので、意識して休憩の時間を入れていかないと潰れてしまう」なのかな、とも思います。

私は昨年リモートワーク半分ぐらいの働き方をし、今年1~3月はずっと在宅でしたが、意識して朝、昼、夜の食事はその都度買い物に行くことにしていました。朝起きて身支度をし、朝食を買ってきていただいてから8時半に机に向かう。12時を過ぎたら一度手を止めて昼食を買ってきていただく。17時半になったら仕事を一旦終わりにし、夕食の買い物に行く。仕事に緩急と区切りが、そして1日に3000~5000歩のウォーキングが得られました。

リモートワークでは通勤時間分の時間が浮いたり、集中を遮る雑談や電話やチャイムなどの割込みがなかったり、つい「とことん」「やり続けて」しまいます。でもそこであえてペースを上げない、そのために例えば「時間割」などを作ってしまう方が、続けやすいような気がしています。ペースを上げないことには抵抗感を覚えもしますが、35年も前、OAの導入時だって「効率化された分」「休憩を」なんて会話があったのだと思えば、人間ってそういうものだよ、そう急に変われないよと割り切れる気もします。

ところでその安部公房、一年近くするとワープロ談議に付き合うのももう十分だろうという心持か、小説家でもある小林恭二が聞き手を務めたインタビューでこうしたやり取りを残しています。

小林:どうやらそろそろ時間切れのようですが、最後にワープロの件を伺って……
安部:それはやめようよ。せっかく大事な話をした後で、ワープロなんて議論の対象にもなりはしない。
小林:じつは僕、手で原稿書いた時期がないんです。最初から小説書くのにワープロでスタートしてしまって……
安部:それはまた珍しいね。もうそんな時代になったのかな。でもよかったじゃないの、手で書くのはうっとうしいからな。
小林:でも手書きの意味もあるんでしょう。
安部:ないね。本質的な区別はほとんどない。あるのはけっきょく才能の問題じゃないの。
小林:意識のフィルターに何度でも繰り返して通せるワープロの利点、やはり評価すべきでしょうね。
安部:手で書く時もそれをやっていたんだ。一つの作品に万年筆三本くらいつぶして、書きくずしの原稿用紙の山に膝まで埋まって……無駄な労力が多少省けただけのことじゃないかな。ワープロのことはもう気にしないほうがいいよ。でも手書きの経験のない人にあったのは初めてだ。こんど君の小説、そのつもりでじっくり読んでみるよ。
(初出:「破滅と再生 2」 海燕1986年1月号/安部公房全集 28 所収)

ワープロに転向した「ワープロ・イミグラント」であり、ワープロで書く方が自分に合うと明言した「ワープロ・ファースト」の安部公房が、はじめてワープロでしか書いたことのない「ワープロ・ネイティブ」作家と出会う一幕。リモートワークでも、こうした場面がいつか来るのかもしれませんね。リモートワークの第一人者が、リモートワーク・ネイティブのインタビュアーにこう質問される。

「実は僕、オフィスに勤務したことがないんです。でもオフィスとか会議室の意味もあるんでしょう?」

従業員の過半数がリモートワークという状況が各社に訪れている今、「もう戻れない」とリモートワーク・ファースト化する組織も増えるかもしれません。そうなれば「リモートワーク・ネイティブ」の社会人も増えていくでしょう。そこでジェネレーションギャップが生まれたとき、リモートワークの第一人者はどうこたえるのでしょうね。安部公房のように、こう言い切るでしょうか。

「ないね。本質的な区別はほとんどない」

そしてこう締めくくるでしょうか。

「オフィスとか会議室のことはもう気にしない方がいいよ」

その答えを知る頃に自分はどんな働き方をしているのでしょう。いまの私はまだ、明言できないけどオフィスとか会議室の意味もあるだろうと考えてしまいます。つまりまだ、リモートワーク・ファーストにも至らない位置、スピード感と表裏のオーバーワークを心配するのだって早い位置にいるのかもしれません。いまはキープマイペースを意識し、リモートワーク・ファーストに自分をなじませることからだよなあ、というところです。

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