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自己犠牲の相対化、百田尚樹「フォルトゥナの瞳」

「人間は朝起きてから寝るまでの間に九千回も選択をしている」。そんな話を倉貫義人の新刊「ザッソウ」で読んで、ソースを知りたくて検索していたら、長く積ん読にしていた百田直樹「フォルトゥナの瞳」に行き当たった。

Googleで検索すると、この本が出版された2015年12月以降には多数言及されているこの数字が、それ以前にはわずかしか見つからなかった。どこかに一次情報があるのだろうが、広まったのはこの本を二次情報としての孫引きとしてなのかなと思う。英語圏情報を引っ掛けるために「decisions per day」で検索するとまず35,000という数字が出てくる。リンク先のSlack Exchangeへの投稿では様々な記事や研究結果を引用していて、27回から35.000回というもの様々な研究成果や記事をリンクしていて、「その範囲で欲しい数字を選べばいいんじゃないかな」とアドバイスしている。

With a range of between 27 and 35,000 decisions per day, I think you can just pick any number you want for this statistic.

「フォルトゥナの瞳」の「九千回も選択」という数字も、出典にこそたどり着けなかったけど、まあ数字としては妥当なのだろう。「フォルトゥナの瞳」は選択の物語であり、「他人の命か自分の命か」という究極の選択の物語である。そしてよく「自己犠牲賛美」といわれる百田節かというと、結末を深読みしていったときにそこには疑問符が付く。

小説版「フォルトゥナの瞳」のあらすじ

※以下ネタバレを含みます。

まずあらすじを紹介しておきたい。「フォルトゥナの瞳」は主人公、木山慎一郎の一人称視点で語られる小説で、僕なりにかいつまむと次のようなあらすじになる。

自動車塗装工として働く木山慎一郎はある日、目の前の吊革をつかむ人の手が透けて見えるという体験をする。そして再び人が透けて見える体験。三度目は全身が透けて服だけの透明人間に見える。そのあとを追って改札を出て、しばらくついていく慎一郎。その目の前で「透明人間」がバイク事故にあい、命を失うとともに姿を取り戻すのを見て、彼は「透けて見える」のは「死が迫っている」人なのだと悟る。
透けて見える人々を目前にして、時に相手を救わずにいられない慎一郎は、ある日駅ホームでで見かけた1人に話しかけようとして、黒川という男に制止の声をかけられる。黒川は自分も持つこの目を「フォルトゥナの瞳」と呼び、後にこの力で人を救うと寿命を縮める――心臓や脳の血管が損なわれていく――と木山に教え、救うのが善とは限らないし救わないのは罪ではない、そういう定めなんだと説く。慎一郎は、透明人間達を定めにゆだねること、自身を大切にすることを決意する。
そうした中、慎一郎がかつて命を救った桐生葵と再会し、お互いに惹かれあっていく。初デートは横浜。しかし往復の電車内で、慎一郎は大勢の指先が透けている人たちを目にする。数日を経て慎一郎は、クリスマスイブの朝に電車事故が起こること、近所の保育園の児童たちも大勢乗車することに気づく。折から届くイブの朝に会いたいという葵からのメールが表示された携帯を返信もせず水に沈め、線路に向かい、身を縛り付ける。引きはがそうとする鉄道員たちの腕にある時計が、事故時刻を過ぎたことを示しているのを見た慎一郎は、直後、心臓に痛みを覚え死を迎える。

そして主人公であり語り部でもある慎一郎が退場した後、最後に3ページほどの短いエピローグが桐生葵の視点で続く。

イブの夕方、朝の線路に立ち入った男が心筋梗塞で死亡したとの新聞記事を目にしに、葵は悲しみに浸る。やはりフォルトゥナの瞳を持つ彼女は、慎一郎もそうであることに気づいていた。彼には自分との暮らしを選んでほしかった。そして汚名を追って死んだ彼が英雄的な勇気を持っていたことを自分だけが知っていた。彼女の目から、一筋の涙がこぼれた――。

慎一郎はフォルトゥナの瞳を誰かに強制的に与えられ、それが「他人の死か自分の死か」という選択であることを知り、葛藤の末、自身を犠牲にして大勢を救う――表面的にはそうした究極の選択と、その末の自己犠牲による偉業の物語、ということになる。

葵から見た「フォルトゥナの瞳」

ただこの物語は、もう一人の「フォルトゥナの瞳」である葵の選択とその結末に焦点を当てると、もう少し違った色調を帯びる。エピローグを踏まえて、葵視点でのあらすじを想像してみる。

葵は死期を目前にした人が透けて見えるフォルトゥナの瞳の持ち主である。ある日、勤め先の携帯ショップのカウンターで「仕事の後に30分だけ時間をもらえないか」と訴える見ず知らずの男と、駅前のスタバで30分だけということで会った彼女は、それが帰り道沿いで起こるガス爆発による死から彼女を救ったことを知る。彼女は、この男もまたフォルトゥナの瞳を持っているのではと考え、職場を探り当て会いに行く。
フォルトゥナの瞳のことは隠したまま、葵は慎一郎に近づき、やがて惹かれあう。初デートは横浜。しかし往復の電車内で慎一郎は変調し、葵はそれが自分にも見える「大勢の透けて見える人たち」によることだと察する。慎一郎が彼らを救おうとすれば死に至るだろう。慎一郎を翻心させることができればとの願いも抱きつつ、葵は彼と結ばれる。しかしその最中、彼の全身が透けているのを見て、慎一郎が救命を決意していることとその時期を悟る。
慎一郎をそれでも阻止したいとの思いで送った「イブの朝に会いたい」というメールは返信が来ないまま、その夕刻に彼女は慎一郎の死を知る。

大量死の予兆を前に、慎一郎は自分の命をなげうち、前述の黒川ももしかしたらという描写がされる。しかし、それとにおわせる一文すらないけれど、葵もまたフォルトゥナの瞳を持ち、慎一郎とともに横浜に向かう電車に乗っているのだ。状況から言えば、彼女もその可能性には気づいていたと考える方が自然だろう。言い換えれば同じ選択肢を前に、葵は自分の命を選択したのだと考える。ここに、自己犠牲の絶対的賛美という見方に疑問符をつける部分がある。

そして葵は、イブの朝に会いたいというメールを送る。これで木山が翻心したとしたら、どういうことになるか?葵は木山の命を救うことになるのだ。そしてそれにより、葵の命が失われるか、そうでなくてもある程度は損なわれているはずなのだ。葵も慎一郎の命か自分の命かという彼女にとっての究極の選択を前に、自己犠牲を選ぶ。しかし、それは叶えられない。ここで自己犠牲とは、奇跡を呼ぶ巫女の祈りやいけにえのようなものではなく、一方に自己の命がかかった場面でのただの選択でしかなくなる。

さらには、慎一郎が自己犠牲により選んだ選択と、葵が自己犠牲により選んだ選択は、一方が叶えば他方は敵わないという相反するものになっている。よく正義とはそれぞれの価値観でしかなく、しばしば衝突すると言われる。自己を犠牲にしてまでも叶えたい願いというのも、絶対的に美しいものではなく、人それぞれの価値観でしかないことが示される。

フォルトゥナの瞳のB面

慎一郎の自己犠牲による英雄的行為という、いかにも百田尚樹節と見える「フォルトゥナの瞳」だが、葵の視点で見直すと(1)自己犠牲は選択肢の一つに過ぎず、(2)自己を犠牲にしたからといって達成や奇跡に近づくものではなく、(3)しかも自己を賭してまでの願いすら個々人の価値観から生まれる願望にすぎないという、自己犠牲を露骨なほどに客観視し、相対化する物語に見えてくる。

もちろん、それすらトリックかも知れない。例えばここからさらに、葵の願いは利己的なものだったから、自己犠牲をもってすらかなわなかったのだ、と読んでもいい。あるいは、利他である慎一郎の願いと利己である葵の願いが相反した時、叶えられるのは利他の願いなのだと。フォルトゥナの瞳という表題すら、慎一郎や葵の持つ死を見る瞳のことではなく、そうした利己的あるいは利他的なふるまいを、フォルトゥナ(フォーチュン:運命)の女神は見ているぞという意味かも知れない。

僕はそう読まないけれど、作者がこの結末の意味を明示していない以上、それは読者の解釈にゆだねられていて自由だ。葵視点に切り替わるたった3ページのB面は、このように謎解きはなく謎かけだけで筆がおかれて、しかも謎かけであることすらなかなか気づかせないように書かれている……と思う。そこすら、僕の解釈でしかない。


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