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僕は「僕は」の話をしたい


暑くなり始めた初夏のある日の夕方、息子を義母に預けて電車に乗り込んだ。

友人たちと飲みに行くためだ。彼らとはインスタグラムの読書アカウントを通じて出会った。日記を読み返すと、ちょうど一年前のゴールデンウィークに初めて対面で会ったらしい。それから年間を通して数回会っており、今日もその繋がりの延長のようなものである。

その日も18時くらいから23時くらいまで、ぶっ通しで話し続けた。面白い。彼らとは読書会や哲学対話などで一緒になることがあるのだけれど、その会のぶっちゃけ話や、「話すこと」についての思いを聞けてよかった。


彼らとの話のなかで「僕は」の話をしたいよね、という話になった。

「誰々がこう言っていた」
「一般的にはこう言われている」

ではなくて、

「僕はこう思う」

偉い人の権威のある言葉や、すでに一般化されたことを剣のように振りかざすのではなく、「僕」たちがひっそりと見つけた、世界の真実のようなものを共有しあう。それが対話の面白さなのではないかという話だった。


それを聞いて、私はお昼にSpotifyで聞いていた相対性理論の話を思い出した。

相対性理論そのものについてはあんまり理解できなかったのだが、最初に特殊相対性理論ができて、その後に一般相対性理論ができたという話が印象に残った。私のなかではふつう「一般」ができて、そのあと「特殊」が生まれる印象があったからだ。

しかし、科学の世界において「一般」を語ることはとても難しく、一事例でも例外が出てしまえば、その理論は全体へ適応することができなくなってしまう。だから、まずは「特殊」を考えるのだという。ある絞られた条件のもとでなら成立する理論を構築して、それを汎化することで一般に反映させていく。そうしてできたのが、特殊相対性理論であり、一般相対性理論だということだった。


対話の中で出てくるそれぞれの「僕は」は、全てそのそれぞれの条件、それぞれの目から生まれた特殊な理論である。けれど、そうやっていくつもの「僕は」をやりとりしていくことで、その小さな空間のなかでの「僕たちは」ができていく。対話はきっと、お互いの〈特殊理論〉をやりとりして、“僕たち”の小さな小さな〈共通認識〉を作り上げていく作業なのだ。

コンプライアンスが肥大して、先回りするように言ってはいけない言葉が「一般化」されつつある現代。自分なりの意見を述べようものなら、「それはあなたの感想ですよね」とないがしろに扱われて、「僕は」は消されてしまう。

だから、時間をかけて「僕は」の話を繰り返すことは、「僕」のケアにつながるのではないか。そう思えた。個人の日記が流行っているのも、そのためなのだろう。


そうやって、互いの話を聞いたり、聞いてもらったりできる時間は愉しくて、5時間という時間も相対的に早く過ぎていった。



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