はじまりの物語

 原発禍についての〈物語〉を描こうとしています。生についての〈物語〉を描こうとしています。

 〈物語〉とは何でしょうか? 私は何を〈物語〉に託そうとしているのでしょうか?

 そういえば、津波の爪痕が深く残る地域では、幽霊の〈物語〉が生まれています。福島第一原発にほど近いある学校で、津波に飲み込まれたはずの子供が、誰もいない校舎にふと現れたという話。屋根裏から聴こえてくるの小さな物音に、亡くした我が子の足音を重ねる母親の話…いくつもの〈物語〉が、誰にも聴かれないままに残されているようです。

 このような話を、怪談と呼ぶには、「忍びない」とどうしても思ってしまいます。亡くなられた方々との邂逅は、深い愛に結び付けられている気がしてなりません。こういった類の話は、非現実的、非合理的、非科学的とみなされているからなのでしょうか。容易に表にでてくることはありません。

 〈語り〉とは、どのような営みなのでしょうか。ただ一つ言えるとすれば、〈語り〉は聴き手の存在によって成り立つ、ということでしょうか。つまりは、まだ亡くなられた方々についての〈語り〉に、耳を傾けられる人が、なかなかいない、ということなのでしょうか。多くの〈語り〉が、いまだに受け止められぬまま、なのかもしれません。

 私たちは、亡くなった方々に、愛をもって接することができずにいるのでしょうか。悲哀に耳を傾けることが、できなくなっているのでしょうか...

 しかし〈語りにくい〉物事であっても、それをある一つの〈物語〉に託すことによって、本質を捉えたまま、よりディープに語ることが、できるかもしれません。そう、それはまるで、民話や昔話のように。亡くなった方々との邂逅が、いくつもの〈物語〉に託されたように。

 ところである日、このような言葉と出会いました。それは、ある女性の言葉。生きた〈語り〉でありました。深い呻吟の果てに、静かに放たれた、ただ一つの、その人の〈語り〉でありました。

 原発事故が、知らず知らずのうちに、みんなを哲学者にしちゃった。哲学的に考える機会をくれた。そういうふうに、ずっと思っているんですよ。震災が起きてから、ずっと。震災前は、普段だったら当たり前のように、お買い物に仙台に出かけていました。東京に遊びに行くことができました。そんな生活をしていました。でも、震災がありました。原発事故がありました。知り合いがなくなりました。住めない地域があります。入れない地域があります。放射線お心配があります。だから…

「ここで生きるって、どういうことなんだろう?」

 って、知らず知らずのうちに、つい考えてしまう。

 でも、正解があるわけじゃないの。私は、正解なんて無いと、ずっと思っている。子供が生まれて、子供を育てるようになったからかな。子供のことを考えるようになったからかな。絶対に正解なんて無いと思う。

 正解なんて無いんだけれど、それでも、現状の中で一番いいと思える選択肢を、探さないといけない。

 そんなことを考えるようになったのも、原発事故が起こったからかな。考える機会を、与えられたから…

 ふと口にされた言葉。

「原発事故が、知らず知らずのうちに、みんなを哲学者にしちゃった。」

 それは、自問せずにはいられなくなった。考えずにいられなくなった。ということを意味している。考えないわけにはいかない。自分自身に問いかけずにはいられなくなってしまった。どうにもならない現実を目前にして、何を大切にして、どこで、大切な人たちとともに、生きていくべきなのか。

 震災と原発事故は、私たちに様々な〈問い〉を投げかけたのである。

「なぜ、生き残ったのか?」

「なぜ、私たちは避難しなければならなかったのか?」

「私たちは、原発について何を知るべきだったのか?」

「低線量被曝を避けるために、避難すべきだったのか?」

「この町で、生き続けるべきなのか?」

「どうして、見えないものは怖いのだろうか?」

「先が見えず、将来の展望が描けないことは、どうしてこんなにも不安なのか?」

 …挙げれば、きりがない。自分自身に問いかけられた、正解の見つからない〈問い〉が、この地域には埋もれている。そしてこの原発禍には、あまたの〈問い〉が、ひっそりと、沈み込んでいる…

 私たちは、問いかけられているのかもしれない。それに気付かされた時、私は、〈問い〉と向き合っている人たちの〈語り〉に耳をすませることを始めました。ひそやかな、か細く、声にならない声。このような声に耳を傾けることからしか、〈語り〉は始まらないのです。

 ここそこにある、まだ聴かれぬままの、いくつもの声。あまたの哲学者たちが、そこにはいました。小さな声で語る、哲学者たちが。血の通った言葉で語る、哲学者たちが。自分の言葉で考え、自分の言葉で語ろうとする、無名の哲学者たちが、しまわれたままの思いを、語りに託そうとしている...

 いくつもの声の中から、哲学を汲み取るのです。これから描くであろうエッセイのなかには、原発禍に暮らす人々の、いくつもの〈物語〉が編み込まれています。そしてどの〈物語〉にも、愛がのせられています。だからこのエッセイは、愛についての哲学でもあるのです。

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