団塊の世代ジュニアの少年時代(本編6)

 このシリーズの最後に、私の強烈に印象に残っているキャンプの話を書き留めておきたいと思う。
 あれは、小学校5年生の冬休みであった。2学期が終わった12月25日(確か)から2泊3日で、土屋先生にアイナメ釣りのキャンプに行かないかと誘われ、友達二人と行くことになった。その友人の名前は伊東順。
目的地は、大多府島。兵庫県から岡山に入ってすぐ、日生諸島の一番外側の島。


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初めてではなく、野外クラブのキャンプで来たことがある島(と記憶している)。
今回は、団体で行くのではなく、土屋先生のプライベート釣りに友達二人でついていきますというスタンス。なので、バスが出るわけでもないので、日生の駅で先生と待ち合わせ。
先生はバイクで行くので、我々はJRを乗り継いで日生の駅までいく。45Lのフレームザックに寝袋からストーブ、釣り竿を括り付けて出かけたのでした。
 港から歩いて20分ほどかかる、夏は海水浴場になるところに勝手にテントを張る。閉まっている海の家のあずまやにテントを張っていた(今考えると怒られそうだけど)。
 水は、港で汲まないとないので、それは先生がバイクに積んで、持って行ってくれる。しかし私たちは荷物を担いで、20分歩く。

 アイナメ釣りは、砂浜から投げ釣りで、当たりが来るのを待つ。針が藻や岩に引っかかり、切れてしまうこともたびたび起こる。特にアイナメ釣りがしたい!という思いで参加した訳ではなく、キャンプをするために来ているというモチベーション。
 一日目、夜はチゲ鍋(おそらく釣ったアイナメも入っていたのだろうと思う)。土屋先生は辛い物が好きなので、子供だろうが関係ない。辛い物が苦手な私も参戦しなければ、腹は満たされない。
 当時、キャンプ生活を有意義に過ごすことに腐心していた私は、キャンプにカルピスの原液を持って行くということをしていた。カルピスの原液を持って行けば、水さえされば、ジュースを沢山作ることが出来るからだ。
 チゲ鍋、辛いから食が進まない。そこで、私はチゲ鍋をカルピスに漬けて食べるという方法を編み出した。
 後で聞くと、先生曰く。小森は辛いもの苦手だから、辛くしとけばあんまり食べないだろうということだったらしい。当時それくらい私は食べる児童だったそうだ。
 

 一日目は、問題なく過ぎ、二日目。午後になり伊東順がおなかが痛いと言い出した。選択を迫られた土屋先生は、伊東順の親に電話して、日生の駅まで迎えに来てもらうことにした。
 今のように今から出たら、何時に日生の駅に着くというのがすぐわかる時代ではない。伊東順をバイクに載せて、船に乗って本土に行かなくてはならい。親と駅で出会い、伊東順を引き渡して、その時間に最終の大多府島行の船に乗れるかどうかは分からないというような時間帯であった。
 確か、最終便は20時くらい。それまでには戻ってこれるだろうから、なにかおかずは買ってくるので、ご飯だけ炊いて待っておくように、という託けを残して、バイクのエンジン音は遠ざかって行った。

 12月26日、港から20分離れた周りに民家もない夏は賑わう海の家に
一人残された。冬至が過ぎたばかりで日が落ちるのは早く、周りに街灯があるわけでもないので、真っ暗になる。
 風の音、猫の鳴き声(記憶に残っている)。
当時、まだイワタニに買収されていなかった、プリムスのランタンを灯し、EPIのガスストーブで、コメだけ炊いて待っていた。
 ひょっとしたら、今日は戻ってこないかもしれないという思いと戻ってくるだろうという思いが交錯する中、出ていく時とは反対に、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきたときの安ど感を今でも覚えている。

 テントの中で、炊いておいたご飯と先生が買ってきたおかずを食べながら、ほっとした安ど感で、涙が出そうになるのをカッコ悪いので必死にこらえているという状況と感覚を今でも覚えている。
 

 とまあ、今年のキャンプでもこんな話を先生にするのだが、先生にとっては、大したことではなく、これまで色んな教え子たちと過ごしてきた時間のごく一部なのだろう、反応しか返ってこないのだが。

 自分の息子が小学校5年生になった時(今は中2)、親としてこれぐらいの体験をさせてやれてないことはどうなのかという思いになった。
 このようなことが、今の私の原体験として、残っているのだとこの年になって感じるようになる。



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