団塊の世代ジュニアの少年時代(序章)

 割り箸のことばかり書いていますが、サラリーマン辞めてなんで林業の世界に行くことになったのか、その原点は私の小学校時代の経験にあるのではないかと年を取って思うようになりました。
 まだ、記憶をたどれば思いだすうちに記録として残しておこうと思うに至り。
 1971年生まれ、団塊の世代ジュニアど真ん中の世代です。この世代がまだ現役で世の中の役に立つうちに行動しなければという思いもありまして。

 3歳まで豊中で暮らし、その後、関西大学のすぐ裏の名神高速道路脇にできたマンションに引っ越してきた。当時、大学の周りはまだ田んぼや畑、ため池が点在する、典型的な里山、雑木林が残っている所であった。
 大学構内は私たちの遊び場だった。今ほど敷地内に建物ばかりの状況ではなく、里山にキャンパスがあるという立地であった(その大学に自分が入学するとはその時は思いもしていなかったが)。
 虫を取りに行くのも大学の中。自分のクワガタのいる木というのがあった。秘密基地も大学の薮の中に作っていた記憶もある。
 家のすぐ裏に、名神高速道路のトンネル部分になる大学の駐車場があって、そこも遊び場だった。凧あげもした。その駐車場に捨てられて車があって、その車に乗って遊んでいて、落ちて額を切って血を流した記憶がある。
その傷は今でも残っている。
 大学のグラントも自分たちの遊び場だった。当時は勝手に使っていても誰にも文句を言われなかった。当時少年野球に入っていたので、その練習も大学のグランドを使っていた。
 小学校の時、釣りに結構凝っていたので、グランドに投げ竿持って行って、遠投の練習をしていた。重りだけつけて、真っすぐ飛ばす練習をグランドでしていた。確か重りの名前は”ジェット天秤”。当時投げ釣りするときに使っていた重り。練習なので、たまに失敗すると、明後日の方向に飛ぶ。
 グランド脇の木に引っかかって取れなくなることもあった。知らん人間が見たら、なんでグランドの木に釣りの重りがぶら下がっているんだ?と思っただろう。
 まあ、そんなことしていても怒られない時代だった。もちろん我々もあほではないので、誰もいないときにしかやらないのだが。
 
 いつでもグランドで遊べるわけではなく、マンションの前で遊ばざるを得ないときもある。マンション前の駐車場でボール遊びをしていると、必ず怒ってくる親父が居た。我々の間でのあだ名は、”がみがみ親父”。その親父の姿が見えると、一目散に逃げる。
 まだ、空き地や広い駐車場があったので、特に遊び場に困ったという記憶はない。近所の公園はボール遊びをするには小さく、目的によって使い分けていた。
 

次回からは何をして遊んでいたのか、記憶を掘り起こしてみようと思います。
  

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