多様性の入口「わかる」「わかった」とは?

家族や職場の人と一緒に行動していて「わかったよ」「それはわかるから大丈夫」とやりとりしたのに後から聞いてみたらこちらが思っていることと違うことをしていて「わかってないじゃん、、」となったことはないでしょうか。

「わかる」「わかった」は確認のときによく使われますが、よく考えてみると非常に漠然とした表現だなと思えてモヤっとする言葉で、同じ「わかる」でも百人百様、同じ意味で使われていることはないように思います。そこで、「わかった」を「自分なりに意味づけができた」と捉えるとなんだかモヤっとしていたところがスッキリするような気がしました。そして、「わかる」を「自分なりに意味づけができている」と捉えると、人によって意味が違って当然に思えます。

「わかった」が「自分なりに意味づけができた」だと思って聞くようになると、相手はどのように「わかった」のだろうか、と気になってきます。「大丈夫」と言われると「どのように大丈夫なのだろう?」と考えるようになりました。

特に子どもの「わかった」「わかる」「大丈夫」はかなり曖昧でこちらがどう受け取るかでその先がずいぶんと変わってきます。仮に「本当に大丈夫?」と再度確認したとしても、「やっぱり違った」「あーあ、だから確認したのに」なんてことも珍しくないでしょう。

小学生の勉強をみていると、区切りのいいところで「ここまで大丈夫?」「質問あるかな?」と確認を行うのですが、「大丈夫」「わかった」という言葉で安心して先に進むと、その後謎のつまずきが続いて「?」となることがあります。
よくよく原因を探っていくと、さっき「大丈夫」といっていたところが「理解」までいっていなかったり、そもそもそれよりももっと前のところに実はつまずきがあったり、などということは珍しくありません。

なので私は「ここまで大丈夫?」「うん、大丈夫」の後に必ず「じゃあこれはこの場合どうなる?」や「ここはこうするとこうなるけど大丈夫?」とこちらで想定されるつまずきポイントについて具体的に理解度の確認を会話で行うようにしています。口で説明できればある程度大丈夫だと判断して先へ進み、できなかったらつまずきのポイントを探る作業に入ります。

このように、「わかる」「わかった」「大丈夫」に対して「どのように?」と考えるのクセがついてくると、相手の理解度を確認するようになったり、予め1つ2つ多めに情報や条件について説明を加えたり、やり取りにズレが起きても修正が早くなったり、本当に理解できているのに勉強以外のところに原因があってできなくなっているケースに気付くこともできたりといいことが沢山あるのでかなり重宝しています。

そしてこのクセによって、相手の「わかった」「大丈夫」を勝手に自分の尺度で判断していないかより気をつけるようになり、「相手によって意味合いが違うものだ」と考えるのがベースになってきているなと思います。

そうすると勉強に限らず様々なことにおいて「相手は今どういう意味でこう言ったのだろう」と自然と考えられるようになってきたように思います。

もちろんまだまだ思い込みで判断・行動してしまっているところが沢山あるので何か偉そうに言える立場ではないですが、多様性やエンパシーといったこれから実現していきたい課題の入口は思ったよりも身近にあるのだなと実感します。

なんだかモヤっとしていることに少し輪郭をつけてみる作業は少し視界をクリアにしてくれるようです。

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