漫画家批評③真鍋昌平 ここではないどこか

真鍋昌平の初期短篇を集めた『青空のはてのはて』が行方不明になっていて、しばらく探してみたがけっきょく見つからなかったので、もう新しく買いなおして、ようやくこの記事を書くことができるようになった。
といっても、じつをいうとそういう理由がなくても消極的になっていたぶぶんはある。いちおうこのシリーズでは、作家にかんするぼくの考えをおおまかにまとめていっているわけだが、ぼくの真鍋昌平論が単独の記事でまとまるはずはないのである。まだなにを書くか決めてないが、たぶん、とっちらかるか、そうでなくてもなにかを書きこぼしたりとか、そういうことになるのは明らかである。そうでなくてもたぶんみなさんこの記事には期待しますよね・・・。
しかしぼくも書くことに情熱を注いできた人間のひとりであるから、そんなことをいっていてもしかたないので、今回も筋肉と情熱で一気呵成に書くことにしよう。以下、「絵柄」とか「画風」とかいう表現が続くが、ぼくは漫画を描いたことのない素人なので、その手の用語がまったく手元にない。だから、たとえばぼくが「絵柄」というときはあくまで印象のはなしであるということを、この時点でご了解いただきたい。


■目次
・作風と絵柄の変化
・他者の位置
 ①異物としての他者
 ②疎外感の演出
 ③価値の保留
・フェーズ1 等価な人物と背景
・フェーズ2 いてはいけないという疎外感
 ①背景の出現
 ②疎外感が確信させるネバーランドの存在
・フェーズ3 異物へのコミットメント


【作風と絵柄の変化】

まずはウィキペディアの「真鍋昌平」の項目や、『青空のはてのはて』巻末に記載されている作品情報をたよりに、ぼくが読んだ範囲の作品の発表(制作)時期を整理してみよう。


<フェーズ1>
・ 超人ドビューン 1993年
・ ハトくん 1993年
・ 最後の居場所 1996年
・ 憂鬱滑り台 1998年(商業誌デビュー)

<フェーズ2>
・ 青空のはてのはて 2000年
・ スマグラー 2000年
・ 星に願いを 2001年
・ THE END 2001年‐2002年
・ かわりめ 2002年
・ Y談 2002年
・ 暴力ポコペン 2003年
・ NO LIFE NO MUSIC 2003年
・ 呪縛霊 2004年
・ 闇金ウシジマくん連載開始 2004年
・ ブログ 2005年
・ 気弱な審判 2006年

<フェーズ3>
・ 闇金ウシジマくん ヤミ金くん 2009年12月開始
・ これから来る未来 2010年
・ 闇金ウシジマくん ホストくん 2011年1月開始
・    〃     ヤクザくん 2014年10月開始
・ アガペー 2015年
・ 闇金ウシジマくん 逃亡者くん 2015年12月開始
・    〃     最終章ウシジマくん 2016年10月開始


『青空のはてのはて』は、どういう意図か不明だが、掲載の順序が発表順にはなっていない。そのせいもあって、時期によって絵柄が大きく異なっていることが非常に印象に残る。そういうなかで、ぼくなんかはやはりウシジマくんの作者として真鍋昌平をみているから、こういう時期からあのガサガサ系の絵柄になっていったのだなとか、あるいは、ウシジマくんじたいも長期連載であるから現在と1巻ではぜんぜんちがっていて、たとえば「これから来る未来」なんかをみると、ああ、この時期にはもう人物はいまみたいなすっきりした顔になっていたのだなとか、いろいろおもうことはたくさんある。
ざっと見たところだと、作者もいっているように、「NO LIFE NO MUSIC」においてウシジマくん的な「狂った隣人の理不尽な暴力」の表現はすでに完成している。会話の成り立たないものたち、説得不可能な暴力による蹂躙だ。その系譜で「呪縛霊」の救われなさもたいがいである。だが、あのガサガサした1巻のころの絵柄と一体ともおもえる独特のリアルな表現は「青空のはてのはて」ですでに観られるし、絵柄から離れて、おそらく本稿で主題となるであろう、「ここではないどこか」を求める傾向は、もっと前のさっぱりした画風の作品からも感じ取ることができる。
絵柄が決定的に変化しているのは、「憂鬱滑り台」と「青空のはてのはて」のあいだだ。つまり、少なくともぼくが把握している範囲で、ウシジマくん1巻に続くガサガサ系の絵柄は「青空のはてのはて」で完成していると考えられるのである。こういうことであるから、この文章ではとりあえず「超人ドビューン」から「憂鬱滑り台」までをフェーズ1と呼ぶ。
また、闇金ウシジマくんが開始してからも、絵柄はアナログに変化していっている。じかに、1巻と40巻とかを読み比べてみれば、画風がもたらす印象だけでなく、漫画としての持ち味もぜんぜんちがうことがわかる。であるから、このあいだにも段階を設けたいところだが、なにしろアナログな変化なので断定的に区切ることは難しい。ここでは便宜的に、絵柄より絵柄がもたらしているであろう作風の変化にかんするぼくの先入見こみで、2007年ごろの「フーゾクくん」と「フリーターくん」のあいだに線を入れて、「青空のはてのはて」から「フーゾクくん」までをフェーズ2、「フリーターくん」以降をフェーズ3と呼ぶことにしよう。


【他者の位置】

さて、とりあえずの見通しをつけたところで、じっさいのところ画風の変化とはなんだろうかということである。ここではそれを世界との関係性、かかわりかたというふうに見ていこう。
現在も連載中のウシジマくんを読めば一目瞭然だが、ウシジマくんは非常に特殊な背景を描き方をしている。ネット情報だが、あれらは写真をとりこんだトレースという技術のようだ。が、ここでは、ぼくじしんの無力もあって、技巧にかんして触れることはしない。ただひとこと、ウシジマくんでは「写真のような背景」が志向されている、ということだけを指摘するにとどめよう。ここでの技巧、方法は、あくまで恣意的なものだ。写真のような背景を求めた結果、写真が使われている、それだけのことかとおもわれるのだ。
このことがもたらしたのが、人物のコラージュ的な印象と、スタティックな画風がもたらす価値の保留である。


① 異物としての他者

「コラージュ」とは美術用語で、フランス語で「糊付け」のことをいうようだ。別々の場所で別々の価値にあったものを組み合わせて、新しいコンテクストを捏造する方法である。
これをぼくが漫画表現ではじめて感じたのは、奥浩哉の名作『GANTZ』、特に最初にねぎ星人が登場したときである。ガンツから派遣された玄野たちがねぎ星人の子どもを殺してしまったその背後に、音もなく立ち尽くすねぎ星人の父親だ。スーパーの買い物袋をぶらさげて立つ父親の違和感は忘れられない。ガンツでは、写真のトレースというより、CGによる細かな背景という印象だが、とにかく、現実を視覚で受け取ったものにかなり近いと感じられる背景に、ふつうではない見た目のねぎ星人が、すさまじい異物感とともに突っ立っているのである。
同様にウシジマくんでは、特に肉蝮のような理解を絶した悪役が登場したときに、この異物感があたまをもたげはじめることになる。では、そもそもなぜ、ねぎ星人や肉蝮が異物に見えるのかというと、それは、「背景」というものが読者にとっての物語を受け取る際の足場、つまり「文脈」にほかならないからである。「背景」は、この世界がどのようなものか、どういう枠組みのなかにおさまるものなのか、自然に伝える役割にある。『進撃の巨人』を背景にした世界にイカ娘が遊ぶことはできないし、『ハイスコアガール』の世界を井之頭五郎が食べ歩くこともできないのである。ガンツにおいては、現実的なもの、わたしたちの生きている世界と地続きであると推測可能なものを、背景は感じさせるが、そこに異様な風体のねぎ星人が浮かび上がることでひどい落差が生じ、異物感を強調することになるのだ。
肉蝮なんかはふつうに見た目もひとから遠いので、この読みは通るとおもうが、そうでない悪役も多数存在する。「背景」が文脈だというのであれば、同じ文脈からあらわれた鼓舞羅などの悪役も、ここに属しているはずである。しかしそうはならない。また、たんに文脈からはずれていることだけが違和感を呼ぶということもない。突如街にあらわれたゴジラの印象が、まずなにより「違和感」である、などということはないからである。
このあとの項で分析するが、ウシジマくんは価値を保留したまま物語をつむいでいくので、背景が写真のトレースであることとはまた別に、スタティックな、動きの感じられない絵柄を採用してもいる。おそらくこのことが、表出している絵それじたいを二層化している。つまり、ウシジマくんの絵柄は、写真をさらにカメラで撮影したような方法で積みあがっているものなのである。

ブログのほうではことあるごとにあげていることだが、かつて安部公房はあるエッセイで、蛇を例にとり、それがなぜあれほど不気味なのかということにかんして、手足がないことによる擬人化の難しさが、彼らの日常を想像させないからだ、というふうに書いていた。角を急に曲がってきた人物にびっくりすることはあっても、ぞっとしたり、違和感を覚えたりということはない。なぜなら、その人物は、わたくしと同じように、足で地面を踏みしめ、こちらに向かって歩いてきたにちがいないからだ。しかし、蛇はこのような推測をすることが難しい。そのことが、見えていないときの蛇の「日常」を、ただの見通しの悪い空間ではなく、端的に虚無としてしまう。そうして、蛇と遭遇するという状況じたいが、時間の連続性を断ち切った、瞬間的な出来事になるのだ。このことは、ぼくはむしろゴキブリのことを考えるとうまく理解できる。彼らはそもそも虫なので、感情移入もなにもないのだが、なぜ虫のなかでも彼らがあれほど嫌われるのか、というかぼくがあれほど嫌うのか、ということを考えたとき、あの動きが原因ではないかと考えられるのである。動きというのは、加速のことだ。格闘漫画のバキで、主人公のバキは、ゴキブリを師匠と呼んでいる。彼らが、動きをとる際に、まったく加速時間を必要とせず、いきなりトップスピードで動けるという、理想的な能力をもっているからである。もちろん物理的にはそんなことはないわけだが、たしかに印象としてそれはある。彼らは、停止しているときと、トップスピードで動いているときのあいだがすっかり断絶しているのである。肝心なことはおそらくこの、彼らの「出現」の前後で存在が断絶しているかどうか、なのである。彼らは、目の前に突如あらわれるまでは、この世界にはいなかった。目の前にいないときは、この世界にも存在していない、そんなふうに感じられるとき、彼らの日常は虚無となり、不気味な存在になってしまうのである。
その断絶が、真鍋作品、特にウシジマくんでは、おそらく写真の二層化によって実現しているのだ。背景は、その前後に伸びる潜在的な文脈を想像させる。少なくとも、見ている側はそこにふところのようなものを感じるはずである。しかし、ここに、まるで写真で撮影したように、それまでこの世界には存在していなかったものが虚無の空間から突如としてあらわれるのだ。

元来、「他者」とは不如意なものである。フロイトでは、大洋的な連続体として認識されている乳児の世界は、最初に母親のお乳が手に入らないという事態を経験したとき、快/不快によって大きく分節され、この不快が外側にはじき出されることになる。他者とは、おもいどおりにならないものであり、それはすなわち、不快なものなのである。だが、人間は成人する過程で、世界がそのようなものなのだという、いっしゅの妥協を覚えることになる。わたしたちは、おもいどおりにならないことがあるからといって、いちいちそういうことをいってまわったりはしない(いちぶそういうかたもおられるかもしれないが・・・)。世界とは、他者で構成されているのだから、理屈からいっておもうとおりにいくはずがない。ある程度わたしたちはそれを許容できるよう、幼いころからの経験を通じて、結果訓練されていく。だが、肉蝮のような人物は「他者」などということばでは到底表現しつくすことのできないものだ。いかに相手が「わたしではない」ものであり、不快を与えてくるものであるとしても、少なくとも蛇ではないから、感情移入の努力をすることはできる。そして、安部公房にしたがえば、彼の日常の洞察することだってばあいによっては可能になる。そうなれば、そこに至った事情に配慮して、不快をそのままにしておくようなことも、成人はできるようになる。けれども、肉蝮のようなな男の「それ以前」、すなわち「日常」を、推測することはできても、感覚的にトレースすることは常人には不可能である。その断絶感が、時間を切り取る写真の技法を通じてあらわれるのである。


② 疎外感の演出

感情移入不可能な存在としての肉蝮のような男は、以上のような方法で異物化される。と同時に、背景となっている写真は、ほんらい異物ではない通常の人物には、あらたな効果を付与することにもなる。それは疎外感である。
背景を文脈とするいまのところの考察にしたがえば、その文脈から正統的に出現した主人公たちは、異物とはならない。彼らには、背景の向こう側に「日常」があるのである。ここでいう「主人公たち」とは、基本的には、内面の描かれている、展開の中心人物のことだ。彼らの出自は背景にある。とすれば、彼らはそこに溶け込みうる。げんに、あとに触れることになるとおもうが、フェーズ1においての真鍋作品では、背景と人物が分離せずほぼ等価に描かれている。しかし、そうならない。それは、内面を追うかたちですすむ物語が、その人物じしんが知覚している違和感を浮き彫りにするからである。これは、この世界で、神の目線からみて、すなわち公平にみて肉蝮が異物であることとはまた異なる。そうではなく、内面の積み立てがつきつける、彼が彼じしんに対して感じている世界との齟齬、すなわち疎外感なのである。じぶんはここにいてはいけないのではないか、という感覚だ(これもあとで広げる予定だが、このことが彼らに「ここではないどこか」を夢想させる)。肉蝮があとから背景に貼り付けられる存在であるなら、彼らは、溶け込んでいたはずの背景からあぶりだされるようにして浮かび上がってくるのである。
ウシジマくんでは、カタギの読者が通常の生活ではまず接触することのない人物像、あるいは機会があってもかかわりたくないひとたちが、感情移入可能になるほど丁寧に描かれる。彼らはたしかに「わたし」とは異なった人種であり、原理的にいって異なった人間であるが、そこにある地獄は、「わたし」の抱えているものと相似形であると、そのような後味が、わたしたちに彼らを他人とはおもわせない。ぼくには通してこういう感想があったから、ウシジマくんを実録漫画的に読む向きには、否定しないまでも物足りなさを感じていたのだが、どうしてこういうことが可能なのかというと、以上の考察から導けることのひとつとして、「文脈」から引き剥がされることによって、なにものでもなくなっている、ということが考えられる。彼らは、おもに借金を経由して、世界への不信感と、世界からの不信感にとらわれ、強い疎外感を覚えている。それが、彼を背景のうえにコラージュ的に浮き上がらせる。
ウシジマくんでは主人公たちが「××くん」というふうにいわれて特定されるが、これは、社会関係上の網目がもたらす位置情報のことである。「フリーターくん」という名称それじたいには価値はない。それは、「サラリーマンくん」とか「ヤクザくん」とかととなりあって、差異が明瞭になることで、その価値が決定していく。これはソシュールという言語学者の言語観である。ソシュールは、創世記的な「言語名称目録観」、すなわち、言語とはものの名前のことである、という立場を批判し、言語というシステムは網目のようなものであり、差異によってその「価値」を決めるものなのだということを示した。「犬」ということばは、まず「犬」という存在があって、それをそのように名づけたのではない。「犬」は、「非・犬」と差異化され、分節されたときにはじめて「犬」になるのである。もっといえば、「犬」ということば出現する前までは、そのような存在はなかったのだ。
ウシジマくんにおけるサブタイトルの「××くん」もことばである。これは、社会を構成する人間関係におけるある人物の属性を示すもの、端的に職業であるが、これが含む意味(コノテーション)は、それ以外の職業との関係性が決めるものなのである。全人類が宇宙飛行士になった未来と現在では、「宇宙飛行士くん」の価値は異なるのである。そして、この網目、言語というシステムが、「世界の文脈」であり、すなわち「背景」だ。彼ら主人公は、「××くん」であることに追い詰められ、自発的に、また無自覚に疎外感を覚え出して、背景から浮かび上がる。このときに、彼らは「××くん」であることから一時的に離れることになる。なにものでもなくなるのだ。むろん、ソシュール的にいえば、このときの「内面」もまた、関係性がもたらしているものだ。この発想は、フロイトの「無意識」などと接続してのちの構造主義に展開していくが、つきつめれば、わたしたちには「素のじぶん」などというものは存在しないということになっていく。しかし、この問題はここでは放棄しよう。重要なことは、彼が疎外感を経由して、すっかりスポイルされてしまったその「××くん」という位置情報から離脱しているということだ。そのことであらわになる「すっぴん」のありよう、これこそが、ほんらい実生活ではかかわりがなく感情移入もできないひとたちへコミットするよすがになるのだ。


③ 価値の保留

これを支えるものが、価値の保留である。特にウシジマくんでは、非常に特殊な職業、あるいはありようの人物を描くことが多いので、ふつうは、バイアスを回避することが難しい。だが、描き方にかたよりがあっては、彼らの抱える地獄がそのままに露出することはないだろう。作者のスタンスはなるべく中立であるほうがいい。いや、中立でもまだたりない。そこには「中立」という志向性が生じる。そうである以上、そこから離れたものに苛烈さが出てきてしまう。ここでは、ほんらいの意味でのリアリズム的な描きかたが望ましい。最近ぼくが読んでいる田山花袋という明治の作家は、ゾラの自然主義を、ある種の誤解と独自の解釈で、現在の私小説に通じる日本的な自然主義に変容させた。ここでいうゾラの自然主義、つまりリアリズムは、科学を基底にする。つまり、科学を経由すれば世界のどのような現象も描写可能であるという信憑が、これを支えていたのである。だから、ゾラにとっての究極のリアリズム的文体は、患者と症状が分離して書かれた医師のカルテだった。田山花袋のばあいは、ぼくのみたところ、これを受け止めつつも、捕捉しきれないものとして自然をとらえているふしがあり、それが、なにか宿命的なものに振り回される人生の卑小さのようなものに接続している。
ただ、これにおいても、科学は真理を記述可能な原則だという信憑があってはじめて成り立ったものだ。つまり、リアリズムにはなんらかの基準が必要になるのである。こうしたところで、真鍋昌平が採用したのが「写真」という発想だったのではないか、というのがぼくの考えである。もっといえば視覚の無時間的な切り取りである。瞬間を切り取る写真の方法に依拠することで、そこにうつしだされたものだけを基準に、出発点として、いっさいの価値観を付与することなく、人物それじたいを配置するのである。

以上が、闇金ウシジマくんを通して読んだときに、あの写真的な画風がなにをもたらしているかという点について、大雑把に読み取れるものだ。まず、理解を絶した他者中の他者をコンテクストからはじき出し異物とする、二番目に、主人公において、じぶんを見失いそうになったとき、平面的な背景が疎外感を演出する助けになる、そして最後に、写真という技術がもともともっている本質的な中立性によって、作者の価値観を漂白する、こういうようなところである。
ここに至るための条件じたいは、ウシジマくん以前から見え隠れしていたが、そのあたりを次に追っていこう。


【フェーズ1 等価な人物と背景】

本稿の分類における「フェーズ1」の作品でもっとも知られているものは「憂鬱滑り台」だろう。これは、この作品集が出る前からぼくも名前は知っていた。
ぼくの手元にある作品で、いちばん古いものは「超人ドビューン」である。これは、作者じしんがあとがきで「狂った漫画」と評しているが、じっさい、たぶん誰もが「なんだこれは」となるような作品だ。若気の至り、といえばそうかもしれないが、どこか井上三太的というか、あざとさも感じないでもない。それが才能のある作家ということかもしれないが、ともあれ内容としては、ひたすら男根である。超人ドビューンは、もとはふつうに人間だったが(なぜか水泳のかっこうをしている)、正義を貫くために改造手術を受けて超人ドビューンになる。彼は、変身する前も、変身したあとも、どことなく男根的である。で、彼は正義をなそうとするが、映画みたいに街を歩けば強盗に遭遇する、というわけにはいかない。そうして、彼は悪人を必要とするようになり、善良なサラリーマンをさらってみるもおぞましいポコチン星人に改造してしまうのだ。むろん、ポコチン星人はもはや男根的ですらなく、男根である。正義は悪の反対概念であり、その事実だけが先行して、順序が逆転、やがて正義は悪を捏造するようになる・・・などという説明は、やめたほうがよいような気もするが、ひとつ指摘しておいてよいのは、やはり「ドビューン」という名前だろう。正義とは、ひょっとして自慰行為なのではないか・・・?というはなしもやはりしなければよかった。
ともあれ、真鍋昌平は本作でアフタヌーンの「四季賞冬のコンテスト佳作」となった。しかし雑誌には未掲載だったらしい。続けて「ハトくん」というナンセンスな短篇が描かれ、次に「最後の居場所」が「四季賞秋のコンテスト準入選」ということで、なかなか連載ということにはならなかった。「ハトくん」は「超人ドビューン」の系譜と考えてよいだろう。「最後の居場所」には、ウシジマくんに接続するものの片鱗がついに見え始める。ひとの身勝手さ、それを本気で後悔する準備があるのにまた同じことをくりかえしてしまう愚かさ、こういうものが軽いタッチで描かれている。そして「憂鬱滑り台」へとつながる。これが、「スマグラー」を描くチャンスを呼んだということだ。

さて、これらの作品の絵柄は、ウシジマくんの「ガサガサ系」(という表現で果たして伝わっているものかわからないが)とはぜんぜんちがっているわけである。どうちがうのかというと、このじてんでは、背景と人物が溶け合っているのだ。価値が等しいのである。
「憂鬱滑り台」は、なにもかもうまくいかない青年ふたりが、悪い大人にそそのかされて中国マフィアの金を盗む計画に参加し、仲間の裏切りもあって命を狙われるという短いはなしだ。ふたりの青年は、親友といえばそうだが、かなり危うい雰囲気もあって、楽園くんなどのルーツであるといえるかもしれない。いま読んで気がついたのだが、彼らは、物語のはじまり、強盗に参加する前に、すでになにかをやらかしているようである。「あんな事しなきゃよかった」というセリフからはじまるのだ。あるいは、これは強盗後の描写なのかともおもえたが、なんともいえない。物語後半、ふたりが腕時計を交換する場面があるのだが、少なくとも最初の時点ではまだ交換されていないのである。
いずれにしろ、ふたりはもうあとがないという感じで、強盗に参加し、命を狙われるハメになる。やがて逃走中知り合った運送屋の女の子に拾われて、いっしょに生活することで、世界がちょっとずつクリアに見え始めてくる。女は、男が借金だけ残して逃げたということで、きつい仕事を続けているが、その生活は悪くないという。やがてマフィアに見つかり、女は殺され、ふたりもそれなりの結末をたどることになる。
ここで問題にしたいのは背景である。このときから、写真のような(というかやはりトレース?)丁寧な描写は見られるが、印象はウシジマくんのものとはかなりちがう。なんというか、ふたりのありようと連続しているのである。というのは、その日ぐらしの彼らには、コンテクストというものがないからである。もちろん、じっさいには、彼らの向こうには堅固なシステムに支えられた「社会」がある。しかし、彼らにはかんけいのないことだ。彼らは、彼らどうしのことしか目に入らない。目に入る背景といえば、せいぜい相手の顔の向こう側に広がる景色くらいである。こうしたところで、いわば人生の先輩として女が登場し、カタギの生活も悪くないと感じるようになる。しかしその希望も、彼らじしんが犯してきたことの代償として、潰えてしまうのである。


【フェーズ2 いてはいけないという疎外感】

フェーズ1における背景と人物の溶け合いは、まだ外部の世界が強く認識されない、幼児的な世界認識であったといえるかもしれない。彼らの世界は、その日暮らしの危うさのなかにあって、居心地のよさによって閉じていた。その代償として、外部からの攻撃がやってきて、結果それを滅ぼすことになっても、物語としてそれはもう「おはなしが終わったあとのこと」なのである。じっさいにこの外部のものとのかかわりまでくっきりと描かれるようになるためには、やはり背景と人物の分離がやってくるのを待つしかなかったのだ。その最初の作品が、「青空のはてのはて」であり、「スマグラー」である。


①背景の出現

スマグラーは、「背景」が司る世界の内側において、その存在が背負い込んでいる「責任」をどのように果たすか、という物語である。
主人公・・・というかウシジマくんでいう丑嶋社長ポジションの男は、運び屋の花園丈(ジョー)で、この仕事に砧という青年が加わる。役者志望で劇団に所属していたがやめてしまい、ひょんなところからアウトローにかかわり、300万の借金をつくってしまった。そこで、金貸しに運び屋の仕事を紹介されたのである。
1冊完結ながらわりと複雑なつくりの物語であって、ここでくわしく語ることはしないが、砧は「背骨」という最凶の殺し屋を輸送中、うっかりこころを許して逃がしてしまう。背骨をヤクザに届けなければ全員殺される。ジョーは、失敗した砧に、役者志望だったこともこみで、しばらく背骨のふりをするように言い放つのである。
サディスティックなヤクザの拷問に耐える砧。これまで、大事な決断を先のばしにし、困難から逃げてきた砧は、ここで背骨を演じきろうと決意する。伝説の殺し屋である。なりきるのは難しいが、覚醒した砧は背骨になりきっていた。修羅場をくぐったヤクザがほんものだったとうけあうほどの芝居を見せ、彼らは危機を乗り切ったのである。
ここで、人物はふたつのありようを見せている。ひとつは、砧である。彼は、ジョーに出会うまでは「憂鬱滑り台」の段階にあった。彼の世界は閉じており、外部の秩序に接続することをおそれて、閉じたままその場その場をクリアすることで生きてきた。そのツケが、現金になって襲いかかってくる。背骨を逃がしたのは砧の失敗だ。その責任を果たすことで、砧は「社会人」となった。これ以降はおそらく、彼のうしろには「背景」が広がり、そこに溶け込んでいくことだろう。そしてもうひとつが背骨だ。背骨は最凶の殺し屋であると同時に、どこか詩人っぽいところのある繊細な男である。毎日よく知らない人間を殺しまくる日々で、殺しというより、「死」を恐れるようになっている。死んだ瞬間、相手は目の前からいなくなる。彼らはどこへいったのか? そしてじぶんは死んだあとどこへいくのか? こういう疑問を抱えている。そんな背骨もついに捕まり、ヤクザのもとへと運ばれることになるのだが、その道中で、砧と背骨はちょっとだけ仲良くなる。砧に対して背骨は死への恐怖を語る。誰の記憶にも残らない、完全な消滅であるじぶんの死を、彼は語るのだ。なぜ誰の記憶にも残らないかというと、彼がアウトローだからだ。「背景」に属する人間ではないからである。これがふたつめのありようだ。アウトローは、いってみれば「その日暮らし」を徹底させた、コンテクストに属さない生き方だ。それは決して「背景」と同化しない。死ねば、消しゴミで消したみたいに、その場からいなくなるだけなのだ。これが、のちの肉蝮などの「異物感」へと接続していくのである。

もうひとつが「青空のはてのはて」だ。これは、全真鍋作品の核となっている「ここではないどこか」を求める感覚が、おそらく自覚的にテーマとなっている最初の作品だ。舞台は満員電車であり、そこで、日常にうんざりしているサラリーマンが、ぶつぶつと独り言をいったり、妄想したりするおはなしである。「背景」に属することで歪むじぶんというもの、解消したり是正したりしたくても、せいぜいが妄想、ため息をつくばかりで、なにも変わらないくだらない毎日。彼は、そんな生き方を正しいとはおもっていない。しかしそうするほかない。かといってそこに使命感を見出せるわけでもない。ただ、ぶつぶつ独り言をいって、妄想を重ねて、毎日を乗り切るだけだ。そういう日々にふと、「本当の自分」のようなものにおもいをはせるのである。むろん、それじたいも妄想にすぎない。ソシュールを持ち出すまでもなく、それは幻想なのである。
社会とわたくしというもののずれにかんしては、誰もが多かれ少なかれ感じているとおもうが、これはおそらく、明治期に西洋から輸入した「個人」という語がもとになっているものだろう。「個人」はindividualの翻訳語で、この英語は、「これ以上分けることのできない」という意味だ。社会という、人間の集合体において、これ以上分けることのできない最小単位が、個人というわけである。この概念が、わたしたちの自己認識にコアのようなものを与えたぶぶんは大きいだろう。わたしたちには、まずコア、つまり素のじぶん、「本当の自分」があって、仕事やなんかを行うときは、そのうえにそれに応じたペルソナを装着するのである。そのとき、わたしたちは「本当の自分」にうそをついて、無理をすることになる。そこへ、負荷が生じる。小説家の平野啓一郎はここに「分人主義」というものを提唱した。そもそも、「本当の自分」なるものは実在しないのではないか、個別の状況でみせる別々の表情が、それぞれ「本当の自分」なのではないかと、人間存在全体を複数の表情の集合と考えたのである。それが哲学的な結論だ、というようなはなしではなく、そう考えたほうが生きやすくないですか、というはなしだ。

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