見出し画像

多数決で決めてはいけないもの

民主主義の基本は多数決だと、安易に多数決を持ち出す人をみかけるが、それは正しくないと思う。

当然の話なのだが、

特定の個人や少数者に不当に不利益を与えたり、個人の判断や自由が尊重されるべきことについて、多数決で決めるのは間違いである。

クラスで、無愛想な人が一人いて、手を焼いていたとしても、多数決がとれればいじめて良いかというとそうはならないし、それは民主的とは呼ばない。おそらくそれは全体主義である。

また、2つの意見が対立したら、折衷案で落とし所をつけようとする人を時々見かけるがそれもまた、安易な判断かと思う。

全体主義と独裁はどっちがよいか

それぞれ、良い点もあるが悪い点もある。人はみんないずれは死ぬ。人は生まれながら不平等であり、個人の自由より、共同体が一つの生命として、豊かに存続する為なら、いくらかの個人の犠牲はやむを得ないと考えるのであれば、全体主義もありかもしれない。

少なくとも歴史的に、いくつかの場面において、我々の先祖は、全体主義的選択を何度もしてきていると思う。

一方、独裁的な政治によって、長年政権が維持されている国もあるし、独裁政治より全体主義の方が優れているとは、一概には言い難い。

もっとも我々は、民主主義と呼ばれる政治システムを採用しているが、それは「非独裁政治」なり、「非全体主義」を表すものでもない。

条例

1962年 迷惑防止条例という、なかなか便利な条例が東京で作られた。いまでは全国で同様の法令が存在するらしい。(全国に広まっていたのは、今知った。)迷惑なものはダメという、ややワイルドカードな条例と認識している。(筆者そこまで法律の専門家ではないので、多少の誤りはご容赦いただきたい。)

もっともこれがどの程度実効性があり、これがある場合とない場合で、どのような問題がどの程度抑制されているか、私は知らない。

ゲーム禁止条例
賛否両論のある条例として興味深い。決めてるのは大人で、制限されているのは、条例を決めることに参加できない未成年である。

未成年のゲームを禁止するぐらいだったら、香川で大人もSNS禁止にして、実効性を検証して欲しい所である。

市民を可視化しよう

少し前に「ノイジー・マイノリティ」という言葉少し話題になったが、我々は民主主義といいつつ、各々おのおのが何を考えているか知らない。

それどころか、(都市では特にかもしれないが)隣に住んでいる人の名前すら知らない。

あくまでも我々が、みんなの意見だと思っているのは、マスコミなんかが恣意的に集めた「国民の声」だったり、ネットで偏った人たちが、自分たちの意見がカサ増しして作った、「ネット世論」なのである。

「自分の周りは、みんなこう言ってるのに、政府はまったく違うことしか言わない」というのも同様で、我々は気がつかないうちにフィルターバブルの中に閉じこもりがちである。

社会の声

なんでも多数決で一方的に決めようとするのは、民主的ではないし、良くないと思う。その一方で、あらゆる人々の声が、捏造ではなく、個別に把握できないと、社会の声は把握できないと思う。

だから、マイナンバーのように法律で、ユニークであることが担保されている仕組みを用いて、人々の声が集計できるような仕組みをはやく作るべきだと思う。

世界を分断させるもの

世の中には意見が半々に割れるものが結構存在する。

前回の、大統領選だったり、それ以前のイギリスのEU離脱投票だったり、とにかく、半数ぐらいで割れた決定というのは、多くの人が不本意な決定を受け止めなければならない。

それが10年に一度とか、稀にあるのであればまだしも、そのような分断が繰り返されると、一度は勝利側に回っても、連続して勝者に回る可能性は低くなり、やがては、皆が住みにくい社会になるだけである。

もしそんな中で、生き残るとしたら、とりあえずルール化されればそれが正義だとして他人にそれを押し付ける、勘違い正義マンだろうが、いずれは自らが他人に課した正義によっていずれは自滅する事だろう。

重要なのは、妥協点や、よりベターな解をさぐりながら、不本意なルール制定はできるだけ回避することだと思う。

そのためには、市民の(考えの)可視化がまずは必要で、その上で、意見を異にする部分があれば、対話が必要だと思う。

そして対話を通じて得るべきものは、必ずしも妥協ではなく、寛容と理解だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?