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怒りのコンテンツが溢れる世界で、自らの感情と論理を捉えてみる

SNSでは怒りのコンテンツが共感を呼び、話題をさらっている。時に左右されたり、時に得るものがないな、と思う。タイムラインに接していると、どこか、感情と論理が一体の情理となって、無理矢理に流し込まれるような感覚になる。

それだけで、自分と直接関係のないコンテンツの消費に加担しているようで、どうなんだろう?と考えている。SNSのように、個人で仕組みを変えることはできないし、ひとつは“距離を置く”という選択もある。そんな折に記事を読んだ。

感情が先走って論理的思考やファクトチェックがおろそかになる
(中略)
社会運動などではまずは感情を表面に出し声を上げて、世の中に問題を認知してもらう段階があって、その次に解決法を考えたり仕組み化する段階がある
(中略)
「共感と論理を両立させる」意識が必要なのは、どちらかというと後者の、仕組み化する時とかソリューションを考える時なんじゃないか

この問いかけに“同感“(共感ではない)しつつ、感情と論理について捉えてみたいと思う。

感情と論理は異なるけど、分かつことはできない

20代のうちは、感情と論理はあまり関係しない、と思って生きてきた気がする。葛藤はあれど、感情とは関係なく“あるべき”理(ことわり)があって、それを自ら擁護するようにロジカルに考えてモノゴトを進めてきた。それで良いと思っていた。

それでも、環境の変化や人間関係でうまくいかなくなった時、できごとを振り返ったり、認知を捉え直すうち「感情と論理は異なるもの、だけど分かつことはできない。」「論理的に考えていたことも、ベースには感情がある。その逆も然り。」と気付くことができた。

論理は感情から始まる、という仮説

世の中を支えるあらゆる論理、ルールや仕組みは、誰が何のために作ったんだろう?その成り立ちを調べるほど、人の「伝えたい」「変えたい」「守りたい」といった強い感情が、世界を変えてきたことが分かる。

例えば、ひとりの数学者の報われない思いや伝えたい気持ちが、今見ている(感情と甚だ関係ない)スマホやコンピュータの成り立ちだったとしたら、胸が熱くなる。だけど、報われないのは悲しい。

※アランチューリングの映画史実としての物語が好きです

その考えは誰のもの?

きっと、日常生活のあらゆる選択も、感情が決めている部分は大きいと思う。私たちは何かを選択する前に、おそらく無意識に近いレベルで感情に従い、無自覚にその選択肢を取捨している。

人間はものごとを決める時は感情的に決めているわけです。もちろん理論があったり、「これは便利だ」「これが使いやすい」「これがなにかにいい」という判断もしたりするんですけれども、それ以上に、人間は感情をもとにものごとを決めている事実があります。

引用元:「人間は感情抜きで物事を判断できない」
人工知能が自動化・予測の次に注力すべき要素

はじめの記事でも話されているように、連日のようにメディアやSNSでは“怒りの共感”がコンテンツになっている。個人的にも、これはとても危険だと思っている。

なぜなら、個人の経験や思考以外の理を排除して、純粋に個人の感情に従って、あるべき論や理(ことわり)に同調しているからだ。例えばTwitterなら、自分のタイムラインに火種が転がってくることは日常的にある。誰だって、右へ左へ、自分と関係ない話題に揺さぶられる。個人の怒りが集まって、怒りの矛先にまた怒りが生じる。

個人に立ち返って、はたして、それは考えているのか?考えさせられているのか?その考えは誰の感情に従ったものなんだろうか。

負のエネルギーとの出会い

自分自身と関係しそうな話題であれば、共感するその感情の理由を問うことも必要だと思う。だけど、自分の考えかどうかも分からない場合はどうする?感情はどうあればいい?

学生の頃、アート作品の制作で悩んでいたことを思い出した。自分の感情や表現したいコンセプトはあるような気はする。けど、書籍を読み漁るほど、本心は遠のき、方法ばかりが先立って考えてしまう。感情と論理を分断して、行き詰まってしまった僕に、情報デザインの先生が言ってくれた。

「作ることって、基本的に負のエネルギーでしょう?」

情報デザインの人、なんて聞くと、勝手にストレートでシンプルで前向きなイメージがあった。その人に“基本的に負のエネルギー”なんて言われて、笑いながら内心理解はできなかった。

だけど、“エネルギー”という言葉で表現されたことだけが印象に残った。エネルギーなら、活かせばよくない?若いなりにそう捉えていた。

批判的な思考態度にエネルギーを活かす

いま思えば、それは“批判のため”だったのかな?と振り返る。批判と言うとよく勘違いされるが、ネガティブな言葉ではなく何かを確かめる意味を持つ。

 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

引用元:コトバンク

確かめたいモノゴトは、自分の中にあるとは限らない。自分と違うモノゴトに向き合うには、それこそ批判的に向き合う必要がある。自分が正だとしたら、モノゴトに向き合うエネルギーは負になる。逆もあるかもしれない。

肯定と同じように、批判も向きは違えどエネルギー。このエネルギーを諦めて捨てるのではなく、向き合うことに使いたいと考えるようになった。

自分が本当に大切なモノゴトと向き合う

人は気分と状況を混同しやすい生き物だと思う。たくさんの情報に触れて、その制約や考慮を増やせば増やすほど、頭の許容範囲をすぐに超えてしまう。今はSNSに接する時間が増えるほど、混同してしまう人も増えたんじゃないかと感じる。逆に無関心に感情を認めない人もいる。

迷いや違和感を持った時にこそ、一度放心して、自らの始まりの感情に立ち返ってみたい。そのときなぜ感情的になったんだろう?ひとつじゃなくても、薄く曖昧だったとしても、そこに訳はあるはず。まず自らの感情と認めてみる。言葉として外在化してみる。

もしかしたら、自分とは関係なくて捨てていいのかもしれない。もしかしたら、それがネガティブと言われようが、大切なエネルギーになるかもしれない。怒りに溢れる世界ならなおのこと、自分が本当に大切にしたいモノゴト、人と向き合ってみたい。

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スタートアップのUI・UXデザイナー/HCD専門家、日常ズボラーのIT土方です。感じたこととその反証を、雑なコラムやエッセイとして書き留めてます。主成分は表現と認知心理/メンタルヘルスケア/要求工学/IA/言葉。何か触れるところあったなら嬉しいです。