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誰かの気持ちになることとアクティングアウト

この頃はTwitterをやっている。タイムライン上で同業の皆さんと話したり、いろんな意見を聞くことは嫌いじゃない。登壇やコミュニティ参加の機会に、多少のセルフブランディングをしながら職業人としてのアカウント色を強めている。

かたやnoteのようなインサイドアウトな行為はあまりしていない。放っておけば沸々と湧いてくるネタもある。こうやって自然と書き始めるのだから、人っておもしろいな、と思う。

自分のあり方を見つめ、さらに表現することはとても演劇的であり、自分のような自分でないような不思議な感覚になる。他者の気持ちが分からなくても、他者と似たような気持ちになれるような気がする。どこか大人らしい行為に思える。稚拙な文章でたしかめてみたい。

自然体であることと好き勝手であること

自分はこのどちらとも、自然体で演じている。自然体で演じることと、好き勝手やること・わがままに振る舞うことは、まず当人の意識のレベルで異なる。

そして、周りからしても接しやすさが変わってくるもの、と思われる。自分はそう思う。もちろん前者のほうが難しい。個人でありながら超個人的であって難しいのだ。

その点で後者は誰にでもできる。うちの幼子も、そこそこの年齢の人でも、主体客体の区別なく自由にコミュニケーションできる。コミュニケーションと言っていいのか悩む。そして、そこそこの年齢でそれだけでは難もある。

社会を俳優として楽しみ生きる

誰かが「大人は社会の俳優」と言っていた。記憶が怪しくて曲解しているかもしれないけど、これは言い得て妙だ、と思っている。

多くの大人が、複数の自分を演じて生きている。どこか1つのコミュニティに属して、1つの暮らし、1つの価値観で生きる人は、現代社会において多くない。それが悪いとは思わないけれど、自己と他者、主体と客体の区別なく生きるには、現代は生きづらい。(無為に心を病んだ経験からそう思う。)

それなりに社会を楽しむには、演じることも重要だと思うのだけど、皆さんどう思うでしょう?

そんな日常を演じる行為から、題字にもある「アクティングアウト」について述べたい。いわゆる「寸劇」である。この言葉・行為はそのまま生きることに有効であり、日常の随所に即興的に取り入れ、かつ、様々な場面で応用の効くものになる。

臨床とユーザー体験

自分にとって「アクティングアウト」は、2つの領域で使われることを知っている。ひとつはメンタルを扱うような臨床心理の領域、ひとつはサービスやプロダクトを扱うUX/ユーザー体験設計の領域。

臨床におけるアクティングアウトは、言語化の難しい部分も含めて自己のまま演じることで、自己の発散と容認を導く方法だ、と思っている。(被験者としての経験だけで、おそらく語るに足りない。)メンタルを病んだ人間にとっては苦痛が生じたり、無理な行動活性によって躁転したりと危険が伴いやすい。

そして、演じる行為は簡単である一方で、演じている自己を意識することは難しい。そこに、向き合いたくない自分がいるかもしれない。

もう一つ、UXにおけるそれは、異なる他者になりきって他者の思考や行動を知る方法。「寸劇」というとこちらのニュアンスのほうが近い。こちらはトレーニング次第で、演じている他者を意識することができる。観察という行為や観察者という役割によって、演じる結果を捉えることができる。

外側から捉えられる事実はあくまで結果にすぎないものの、その事実の背景に、他者の心の設計図がみえるかもしれない。

背景は異なるから、演じるだけの意味がある

自分の意見を持つことは悪いことじゃない。これだけ多くの人が情報を手にする機会を得て、個々に意見を持っている。一方で、意見の取り交わし、議論がうまく進まないこともある。

「私は○○と思います」と、人がある1つに固執しても、あまり有益ではないと考えている。求めたいのは、その場にとって答えを導き出すための意見や関わりである。多くの場において、誰が正しいかでなく、何が正しいかを探りたい。

意見が膠着したら「やれ○○な人ならどうだろう?」と演じてみることで、自分たちが信じていたものとは、また違った意見やその背景への理解が産まれるかもしれない。背景が異なるから、その意味があるんじゃなかろうか。

豊かな背景のもとで踊れ

ただ生半可な上辺の想像だけで、場の納得を得られるとは思わないし、きっと私自身も納得しない。私という自己が想像する他者は、おそらくの視点が捉えた勝手な見立てを連れてくる。「あの子はきっとこう動く。こんなことを考える。」なんてふうに。これでは確からしくない。

答えを導くには、先入観を無くし、相当な量の“背景”を事実として捉えていく必要がある。たとえば、アニメやドラマの登場人物を考えるとき、その背景なくしてその性格や行動は決められない。背景の解像度が高いほど、豊かであるほど、その他者は自ずから動きだすんじゃなかろうか。まるで自分になるように、踊るように。

演じることは、演じてみるまで分からない。でも豊かな背景があれば、おそらく他者のような何かになれる。それが自分の思う「誰かの気持ちになること」だ。もし行き詰まったら、豊かすぎるぐらいの背景を描いて、踊ってみましょうよ。

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スタートアップのUI・UXデザイナー/HCD専門家、日常ズボラーのIT土方です。感じたこととその反証を、雑なコラムやエッセイとして書き留めてます。主成分は表現と認知心理/メンタルヘルスケア/要求工学/IA/言葉。何か触れるところあったなら嬉しいです。