
坪内隆彦著『GHQが恐れた崎門学―明治維新を導いた國體思想とは何か』まえがき
以下、明治維新150年記念出版として上梓した『GHQが恐れた崎門学―明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社、平成28年9月)のまえがきを紹介します。
志士たちの「聖典」なくして明治維新なし
百五十年前の一八六八年、二百六十年間続いた徳川幕府がついに倒れ、明治維新が実現しました。その過程で多くの志士たちが自らの命を擲ちました。これらの志士たちの高い理想と鉄のような意志がなければ、明治維新は達成されなかったのです。
本書は、幕末の志士たちが目指した「わが国の理想の姿」がどのようなものであったのか、そして彼らの不屈の行動を支えたものがいったい何であったかを明らかにします。
幕末の志士たちには、自らの思想と行動を支える教科書、もっと言えば「聖典」とも呼ぶべき座右の書がありました。それが、本書で紹介する浅見絅斎の『靖献遺言』(一六八七年)、頼山陽の『日本外史』(一八二七年)などの書物です。例えば大正六(一九一七)年に刊行された『国史趣味読本』は「維新以前、浪士書生の間に於て、盛に講読せられたる書籍は、浅見絅斎の靖献遺言と、頼山陽の日本外史とにあらずや。当時にして、靖献遺言・日本外史を読まざるものは、殆ど志士の間に歯せられざりき」と書いています。吉田松陰は、梅田雲浜を「『靖献遺言』で固めた男」と呼びました。
筆者は、これらの書物なくして、明治維新はなかったと言っても過言ではないと考えています。これらの「聖典」には何が書かれていたのか、そして、志士たちの魂をいかに激しく揺さぶったのか。それを本書で解き明かしていきます。
山崎闇斎を祖とする崎門学、その思想を受け継いだ水戸学だけではなく、『中朝事実』を著した山鹿素行や本居宣長・平田篤胤らの国学が、江戸期國體思想の発展に貢献しましたが、ここでは主に崎門学に焦点を当てます。
わが国の本来の姿、國體の真髄は、万世一系の天皇による親政です。天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治です。山県大弐は、本書で取り上げる『柳子新論』において、「昔の天子は人民をわが子同様に見なし、人民は昔の天子をわが父母同様に見なした」と書いています。例えば、「民の竈」の逸話で知られる仁徳天皇は、「聖王たるものは、国民に一人でも飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた」という姿勢をお失いになることはありませんでした。常に国民の生活をお気遣いになり、生活が困っているとお考えになるや、課税を停止して国民の負担を軽減され、ご自身の生活は顧られることがありませんでした。
崎門学に連なる志士たちは、このわが国本来の姿が容易には実現されないことを理解していました。多くの先覚者たちが天皇親政の理想に目覚め、その理想の実現を志したものの、それを阻まれ失意のうちに斃れたことに深い思いを抱いていました。
遡れば、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、楠正成らの忠臣、徳川幕府全盛時代に弾圧された竹内式部や山県大弐らの先覚者──。困難な状況において孤高の戦いを挑み、敗れてもなお、その志だけは歴史に留めようとしたこれらの先覚者に、自らも連なろうとしたのです。この思いこそが、幕末の志士たちの鉄のような意志を支えていたのです。本書では、この意志の継承の具体的事例を描きます。巻末に掲載した年表からも、斃れてもなお遺志を継がんとする志士たちの魂のリレーの歴史が浮かび上がってくると思います。
例えば、崎門に連なる高山彦九郎の魂を継ごうとする強烈な思いこそが、蒲生君平の『山陵志』だけではなく、頼山陽の『日本外史』執筆の原動力となっていたようです。
残念ながらいま、「天皇親政こそがわが国のあるべき姿だ」という認識は失われています。敗戦後、「天皇親政はわが国の歴史の例外だ」という主張が幅を利かせてきたからです。津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』(昭和二十一年四月)以来、「天皇不親政論」が流布し、石井良助氏らの研究によってさらに強化されていきました。これに対して、平泉澄は、昭和二十九年の講演において次のように語っています。
「藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。(中略)従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)
この立場に立たなければ、明治維新の意義を正しく理解することは到底できません。
『靖献遺言』、『保建大記』、『日本外史』など、本書で取り上げる書物を知ることによって、明治維新の最大の意義が皇政復古にあったことを改めて確認することができます。その意義は、「維新の詔」(明治元年三月十四日)に明確に示されています。
「窃に考るに、中葉、朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して、実は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯名のみに成り果て(中略)朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古、列祖の尽させ給ひし跡を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし」
明治維新の原動力・崎門学
では、天皇親政の理想を見失わなかった崎門学派とはどのような存在だったのでしょうか。山崎闇斎が強調したのは、君臣の大義と、内外(自国と他国)の別です。闇斎は、「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら垂加神道を樹立しました。
しかも闇斎は、自らの出処進退によって、皇政復古の志を暗に示していました。闇斎は会津藩主の保科正之に仕えていましたが、寛文十二(一六七二)年に正之が死去すると、闇斎は会津藩の俸を辞し、亡くなるまで京の地を出なかったのです。また、闇斎の高弟浅見絅斎もまた、「予は既に終身足関東の地を踏まず、食を求めて大名に事へずと誓へり」と語っていました。
天皇親政を目指した崎門学派の立場は、御用学者として幕府で重きをなした林羅山らの立場とは対極にあるものです。わが国の正しい姿は天皇親政にあるという立場を明確にしたのが崎門学だったのです。
朝権回復を目指した崎門派の行動が、すでに明治維新の百年以上前から開始されていたことに注目すべきです。崎門学を学んだ竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始し、宝暦六(一七五六)年には桃園天皇への直接進講が実現しました。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていたのです。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されました。これが宝暦事件です。
続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きます。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件です。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのです。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きています。
この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎です。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継ぐのです。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていました。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとしたのです。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれました。その三年後に、彦九郎の後を追って切腹したのが、盟友の唐崎常陸介です。
こうした一八世紀後半の動きが、やがて幕末の討幕運動に継承されていくのです。内田周平は、勤皇の事業に最も尽力貢献して人物として、四人の崎門学者、すなわち桃園天皇時代の竹内式部、光格天皇時代の唐崎常陸介、孝明天皇時代の梅田雲浜、有馬新七を挙げています。
日本人が失った死生観
崎門学の真髄は、平泉澄の以下の言葉に言い尽くされています。
「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり、高山彦九郎恢慨屠腹すれば、唐崎常陸介之につぎ、梅田雲浜天下の義気を鼓舞して獄死すれば、橋本景岳絶代の大才を抱いて斬にあひ、其の他有馬新七、西川耕蔵、乾十郎、中沼了三、中岡惧太郎、相ついで奮起して王事に勤め、遂によく明治維新の大業を翼賛し得たのであつた。國體を明かにし皇室を崇むるは、もとより他に種々の学者の功績を認めなければならないのであるが、君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」
筆者は、「百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ」という言葉に、崎門派の生き方、さらに言えば死生観を強く感じます。志半ばで斃れた先覚者の思いは、後生の志士に必ず引き継がれるという考え方です。具体的に言えば、弟の正季と「七生滅賊」を誓い、刺し違えて自刃した大楠公の精神は不滅であるという考え方です。この確信がなければ、明治維新は起こらなかったかもしれませんし、鎌倉幕府以来の歪んだ国の姿(「変態」)のままだったかもしれません。
肉体的生命だけが尊重され、義よりも利が優先される現在の日本社会では、「節に死す」という生き方は理解し難いものかもしれません。しかし、『靖献遺言』にある「万人の承認する是非の正、論議の公は、天地とともに存して滅ぼすことができぬ」という言葉を、身を以て学んだ志士たちには、「節に死す」ことができたのです。国学もまた、わが国の國體を明らかにした学問ですが、実践的な行動を支えた学問という点で、まず崎門学が挙げられるべきなのです。
承久の悲劇─建武の中興─明治維新の精神的連続性
幕末の志士の戦いの最終局面は、二百六十年にわたって続いた徳川幕府を倒すことでしたが、彼らの闘争は、七百年に及ぶ幕府体制との戦いでもありました。
幕末の志士たちには、「鎌倉幕府以来七百年に及ぶ武家政権はわが国本来の姿ではない」という明確な認識があったのです。だからこそ、幕末の志士たちは、元弘三(一三三三)年の建武中興における後醍醐天皇の挫折、さらに遡って承久三(一二二一)年の承久の変における、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に特別な思いを抱き、貫徹されることなく挫折した親政回復の理想を自ら成就しようと志したのです。
承久三年、皇政復古を目指した後鳥羽上皇の御企図を、鎌倉幕府は鎮圧し、後鳥羽上皇を隠岐島へ、順徳上皇を佐渡島へ配流し、土御門上皇も自ら土佐国へ配流されました。三上皇は絶海の孤島にわびしくお過しになったのです。
後鳥羽上皇は、天皇親政の黄金時代とも言うべき、醍醐天皇(在位:八九七~九三〇年)、村上天皇(同:九四六~九六七年)の延喜・天暦の御代の再現を目指され、その実現のために、自ら文武の両道を研究され、公家たちにも研究鍛錬させたのです。幕府政治を支持する歴史家たちは、この後鳥羽上皇の御志を無視し、それを鎮圧した北条の民政を称えてきたのです。
天皇親政を回復する御志を理解し、承久の変を厳しく批判したのが、北畠親房の『神皇正統記』です。同書には「下として上を犯すは最も倫理道徳にそむいた事であつて、一旦は戦争に勝つても結局は必ず皇室に従ふべきである」(平泉澄訳)とあります。そして、『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せ、鎌倉幕府、北条氏を明確に糾弾したのが、崎門学だったのです。
後醍醐天皇の父・後宇多天皇もまた、後鳥羽上皇と同じように、醍醐天皇、村上天皇の治績をお慕いになっていました。後醍醐天皇は、後宇多天皇のこの御精神を継がれたからこそ、自ら後醍醐天皇と称えられたのです。平泉澄は建武の中興について「この御事業は世を延喜天暦の昔に返さむが為の、則ち王政復古の御事業としてこれを御父帝より御受けになつたものであります」と明確に書かれています。
明治維新と建武の中興・承久の悲劇の精神的連続性は、明治天皇の御沙汰に明瞭に示されています。明治二(一八六九)年二月、後醍醐天皇の皇子護良親王のために鎌倉宮を、宗良親王のために井伊谷宮を創建することを下命せられ、明治十三(一八八〇)年八月には懐良親王を祀る八代宮、同二十三(一八九〇)年九月には、尊良親王を祀る金崎宮が創建されました。また、明治六(一八七三)年には、御沙汰により、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の御神霊を奉迎することとなったのです。
承久の悲劇、建武の中興の意義を正しく理解し、誤った歴史観に対して果敢に反論を試みてきたのが、崎門学派です。ところが、わが国本来の姿を見失った戦後の教育においては、承久の悲劇、建武の中興の意義は正しく教えられていません。例えば、東京書籍の教科書『新しい社会 歴史』には次のように描かれています。
「朝廷の勢力の回復を図っていた後鳥羽上皇は、第3代将軍源実朝が殺害される事件が起きると、この幕府の混乱に乗じて、1221(承久3)年、幕府をたおそうと兵をあげました。/しかし幕府は大軍を送ってこれを破り(承久の乱)、後鳥羽上皇を隠岐(島根県)に流し、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視しました」
後鳥羽上皇の親政回復の御志にふれることなく、変の背景について、ただ「幕府の混乱に乗じて」と書き、しかも鎌倉幕府を批判する言葉も一切ありません。
一方、建武の中興の歴史も歪められてきました。『新しい社会 歴史』は「鎌倉幕府の滅亡で、天皇中心の新しい政治(建武の新政)」が始まり、後醍醐天皇は武家の政治を否定し、公家(貴族)重視の政策を続けました。このため、武士たちの間に不満が高まり、足利尊氏が武家の政治の復活を呼びかけ兵をあげると、新政は2年ほどでくずれました」
天皇中心の政治と武家の政治とが、価値判断なく言及されています。ここでも、親政回復の理想について一切説明していません。新政の崩壊について「武士たちの間に不満が高まり」と書いていますが、新政が崩れた根本的原因は、当時の国民が義を忘れて利を求めたがために、足利尊氏の誘いに乗ってしまったことにつきるのです。
このような教科書で日本史を学んでいては、どんなに「わが国の本来の姿」と訴えたところで、その意味が理解できるわけがありません。そして、「わが国の本来の姿」を顕現するという理想を失えば、日本は日本でなくなってしまうでしょう。
GHQが恐れた崎門学
戦後、GHQがわが国を占領した際に自らに都合の悪い書物を焚書したことは、ようやく日本社会にも知れ渡ってきました。その中でも「國體」に関するものが数多く葬られてしまいました。
GHQは、平泉澄の『闇斎先生と日本精神』、『日本精神の復活』、高須芳次郎編『栗山潜鋒・三宅観瀾集』、小林健三『垂加神道』、など、山崎闇斎を祖とする崎門・垂加の学に関する書籍、塚本勝義『藤田幽谷の思想』、松原晃『藤田幽谷の人物と思想』などの水戸学に関する書籍を没収しました。これは、澤龍氏が収集した書籍の分析に基づく占領史研究會編著『GHQに没収された本: 総目録 増補改訂版』によって明確になりました。
さらにGHQは、わが国の本来の姿を説いた書物を次々に没収したのです。楠公精神もその対象となり、土橋真吉『楠公精神の研究』などが没収されました。書名に、「國體」「国民精神」「日本精神」「日本主義」「大和魂」「神国」「神州」「皇国」「皇道」「皇民」「臣民」「臣道」「勤皇」などの付く書籍は悉く没収の対象となっていたことがわかります。このGHQの焚書によって、戦後の日本人はわが国の國體を見失ってしまったのです。
大東亜戦争においてわが国の底力を痛感したアメリカは、戦後日本を無力化しようとしたのです。そこで日本の國體を破壊し、日本人から愛国心を喪失させようとしたのです。本来、日本の國體思想は攻撃的、排外的なものではなく、世界の手本になる思想です。ところがアメリカは、日本が本来の姿に戻り、真の独立を求める思想的基盤として國體思想が蘇ることを恐れたのだと思います。
しかし、崎門の学は、厳しい占領時代を経て、生き残ってきたのです。その真価の一端を筆者なりに伝えることが本書の目的です。
崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「敗戦後、崎門垂加の学は、軍国主義の源泉、超国家主義思想なりとして危険視せられ、嘗てこれを高唱して得々たりしものも、その口をつぐみて知らざるの貌をなし、なかには却って罵詈已まざるあるに至れり」(『紹宇存稿』平成十年八月)と嘆かれています。
一方、平泉自身は、昭和四十五年十一月に刊行された『少年日本史』の前書きで次のように書かれています。
「…正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。従って皆さんが、此の少年日本史を読まれる時、それが一般に行われている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう」
志士の魂を揺さぶった五冊
本書では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』などが、いかに志士の魂を揺さぶったかを描きます。
浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。
闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。
闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。
そして、全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。
敗戦と占領を経て、わが国は「本来の姿」を喪失しました。その中で、孤高の戦いの先頭に立ってきたのが崎門の学の継承者です。明治維新の原動力となった『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』は、その役割を終えたのではなく、いまこそその役割を果たすときです。戦後これらの書物は封印され、忘れ去られてきました。これらの書の真価を聊かなりとも伝えることができれば、望外の喜びです。
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!