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西郷南洲──維新精神の貫徹

「南洲=征韓論」説を否定した勝海舟
 明治四年十一月十二日、岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允ら遺外使節団が欧米各国の視察に出た。西郷南洲、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが留守政府を預かる中、朝鮮は修交交渉を頑なに拒絶していた。これに対して、明治五年九月、外務省は旧対馬藩が管理していた草梁倭館を接収し、「大日本公館」と改称、外務省の管轄下に置いた。これに朝鮮側は強く反発した。
 明治六年五月、大日本公館駐在の外務省出仕広津弘信は、外務少輔上野景(かげ)範(のり)に宛てて報告書を送達、日本に対する朝鮮側の侮蔑的な批判を伝えてきた。事態を重く見た上野は、太政大臣三条実美に太政官での審議を求めた。結局数度にわたる閣議の結果、八月十七日に南洲を朝鮮に派遣することが決定された。
 ところが、帰国した岩倉や大久保はこれに反対、十月二十四日、南洲の派遣は無期延期された。南洲は辞職、翌二十五日には、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らの参議も辞職した。
 未だに歴史学界には、当時の南洲の主張を、武力行使を前提とした「征韓論」だとする立場がある。しかし、南洲の主張は、まず相手を説得するために自ら朝鮮に赴くという「遣韓論」だったのではなかろうか。
 ところが、対外的な武力行使を主張する南洲に対して、岩倉や大久保は内政優先を唱えて反対したという歴史観が定着していった。伊牟田比呂多氏は、それは明治政府内の権力闘争に勝利した岩倉、大久保、伊藤博文の功績礼賛に力を入れた顕彰史観が広がったからだと指摘している。
 南洲下野から一年半後の明治八年四月十四日、修史局が開設され、初代総裁には大久保の腹心だった堀次郎(伊地知(いじち)貞(さだ)馨(か))が就いた。明治十三年五月以降は、三条実美が総裁、堀が副総裁であった。中央教育審議会委員などを務めた勝部真長氏は「それ以来、明治二十年頃までに時の薩長政府に都合のよいように史料が書き替えられた形跡は皆無ではない」と書いている(勝部真長『西郷隆盛』PHP研究所、平成二年、百五十四頁)。
 一方、明治八年六月には新聞紙条例・讒謗律を公布するなど、南洲下野後の政権は厳しい言論統制をしいた。南洲没後十三年後の明治二十三年になって、ようやく突破口を開いたのは勝海舟であった。彼は、『追賛一話』を刊行し、次のように南洲は征韓論者ではないと説いた。
 「世、君を以て征韓論の張本人となし、十年の乱を以て征韓論の相背(はい)馳(ち)したるに源由すとなす。是れ未だ公の心を識らざる者なり。夫れ君が征韓論の張本人たるの大誤なるを明かにするを得ば、之より端摩盲測せる臆断の誤謬たるは、刀を下さずして自ら解すべし。予、明治八年十月君が篠原国幹に贈られし書簡を蔵す。之れを一読せば、其疑を霽(はら)すに足る」
 さらに日清戦争が勃発した明治二十七年、評論家で、女子教育の発展に尽力した巌本善治が、海舟の次のような談話を『女学雑誌』に掲載している。
 「其れから、西郷先生の征韓論の事を尋ねた所が、海舟先生は同じ調子で、『ナニが征韓論ダ、いつ迄、馬鹿を見てるのだ。あの時、己は海軍に居つたよ。もし西郷が戦かふつもりなら、何とか話があらふジヤアないか。一言も打合はないよ。あとで、己が西郷に聞いてやつた。お前さんどふする積りだつたと言ったら、西郷メ、あなたに分つてましよふと言って、アハアハ笑つて居たよ。其に、ナンダイ、今時分まで、西郷の遺志を継ぐなどゝ馬鹿なことを言つてる奴があるかエ。朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどゝ云ふことが、何処にあるエ』と言ふことで、丁度日清戦争の頃、烈しいお話があったことがある」(松浦玲『明治の海舟とアジア』岩波書店、昭和六十二年、九十六、九十七頁)
 ところが、海舟の主張は顧みられないまま、「南洲=征韓論」説が定着してきたのである。
 海舟が『追賛一話』を刊行した明治二十三年、金子賢太郎は国史編纂局設置を提案したが、宮中顧問官伊藤博文が強く反対してその実現を阻んだ。海舟は、明治三十年に「幕府が倒れてからわずか三十年しか経たないのに、この幕府の歴史すら完全に伝える者が一人もいないのではないか」と批判している。ようやく維新史料編纂会が開設されたのは明治四十四年五月のことである。

江華島事件を批判した篠原国幹宛て書簡
 戦後の歴史学界で、南洲が征韓論を唱えたという通説に正面から異を唱えたのが、毛利敏彦氏である。彼は『明治六年政変』において「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって朝鮮国との修交を期すことであったと推論するのが合理的であるように思われる」と明確に主張している(『明治六年政変』中央公論社、昭和五十四年、百二十八頁)。
 通説の根拠とされてきたのが、明治六年七月二十九日に南洲が板垣退助に宛てた手紙の中の「暴殺は致すべき儀と相察せられ候」という表現である。しかし、この手紙には、次のように「朝鮮に対する説得」と「朝鮮との戦闘」という論理が複雑に絡み合っている。
 「……兵隊を先に御遣わし相成り候儀は、如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。左候わば初めよりの御趣意とは大いに相変じ、戦いを醸成候場に相当り申すべきやと愚考仕り候間、断然使節を先に差し立てられ候方御宜敷はこれある間敷や。左候えば決って彼より暴挙の事は差し見え候に付、討つべきの名も慥(たし)かに相立ち候事と存じ奉り候。兵隊を先に繰り込み候訳に相成り候わば、樺太の如きは、最早魯(ロシア)より兵隊を以て保護を備え、度々暴挙も之れ有り恨事ゆえ、朝鮮よりは先に保護の兵を御繰り込み相成るべくと相考え申し候間、旁往き先の処故障出来候わん。夫よりは公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せられ候に付、何卒私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候」
 ここに、自ら使節として朝鮮に赴き、自ら謀殺されることによって、開戦に持ち込むという決意を読み取ることは可能である。しかし、同時にこの手紙には、派兵よりも使節を先に出すべきとの主張、朝鮮より樺太に派兵するのが順序だという主張が含まれている。
 毛利氏は、南洲の板垣宛て書簡の論理の錯綜に着目し、南洲が使節として赴くという決定に持ち込むために、板垣の支持を必要とした状況について考察する。まず、朝鮮に使節を出すとすれば、清国との交渉で成果をあげた外務卿副島種臣が行くのが順当であった。それでも、副島ではなく、南洲が赴くと決定するために、南洲は副島と同じ肥前出身の大隈重信、大木喬任、江藤新平以外に、有力な後援者を必要としていたと考える。それが板垣だったのである。ところが、征韓論に傾いていた板垣の同意を得るには、自己の遣韓論をそのまま提示したのでは、うまくいかない。毛利氏は、そこで「使節謀殺」云々の議論を敢えて展開したのだと主張している(前掲書百十九頁)。つまり、「使節謀殺」云々は板垣説得のためのテクニックとして用いられた表現だったというのだ。
 南洲が最終的な見解を表した、三条宛ての「朝鮮国御交際決定始末書」には、「いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく、彼我とも疑惑致し候ゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服せず候につき、是非曲直判然と相定め候、肝要の事と見居建言いたし候ところ、御伺いのうえ使節私へ仰せ付けられ候」とあり、遣韓論が示されている。
 南洲は征韓論を唱えたという通説に対する、もう一つの有力な反論の根拠は、南洲が下野した後の明治八年に、大久保らが主導した江華島事件を南洲が厳しく批判していたことである。江華島事件とは、日本海軍が韓国に無断で測量していたため韓国軍から砲撃を浴びせられ、これに直ちに応戦して韓国軍を制圧した事件である。
 南洲は、篠原国幹への書簡の中で、朝鮮は永い交際の国であるが、御一新以来すでに数年外交的紛糾を重ねて来たのであるが、今回のように人事を尽くさないで戦端を開くようなことになったのは「遺憾千万」であると痛烈に批判している。南洲は、初めに測量の話を申し入れて、韓国がそれを認めた後に発砲して来たのであれば敵対交戦するのも道理だが、それでもまず談判を試み抗議すべきであると説き、ただ彼を軽蔑して、彼が発砲したからこちらも応戦するなどというのは、これまでの数百年の友好関係の歴史に鑑みても「実に天理に於て、恥づべきの所為」だとした(黒龍会編『西南記伝 上巻二』原書房、昭和四十三年、三百七十三頁)。まさに、この篠原宛て書簡は、勝海舟が明治二十三年に南洲は征韓論者ではないと主張した際の根拠として挙げたものである。
 毛利氏は、「征韓論争」の対立の真相は長州派対佐賀派(特に江藤新平)の派閥争いにあったとするが、渡辺京二氏は、大久保が南洲と切れたかったことが真相だったのではないかと主張する。電信鉄道、「蒸気仕掛けの器械」の導入を急ぐなと叱咤する南洲が、専制権力による近代化の強行しか日本の選択はないと考えていた大久保にとって障害だったというのである(渡辺京二『維新の夢』筑摩書房、平成二十三年、三百五十三頁)。
 野島嘉晌(よしあき)は、「…大久保と西郷の対立は、ただの政策論争ではなくて、文明の本質についての認識のちがいという政治哲学の対立に根基があるといわなければならない。そして、西郷の主張に道義的優位をあたえていたものは、彼が尊皇攘夷という維新の正統な精神をついでいたことであり、大久保らの政府主流が、維新の達成と同時にはやくも維新の精神を裏切るものとみえたことである」と書いている(『明治・大正・昭和にわたる本流ナショナリズムの証言』原書房、昭和五十六年、十頁)。

南島への流刑と敬天愛人の思想
 敬天愛人に象徴される南洲の思想全体を捉えた上で、明治六年の発言も考えるべきであろう。桶谷秀昭氏が「南洲の文明観を踏まえた上で、南洲の征韓論を政策論として見るべきではなく、思想の次元でみる必要がある」と指摘する通りである(桶谷秀昭「草花の匂ふ国家〈七〉征韓論」『日本及日本人』平成八年十月、九十一頁)。
 南州は、文政十(一八二八)年十二月七日、鹿児島の下加治屋町に生まれた。彼は終生、大塩平八郎(中斎)の『洗心洞箚記』を愛読したというが、陽明学だけではなく、朱子学、山崎闇斎の崎門学にも通じていた。南州は、「近思録派」に属していた関勇助、赤(あか)山(やま)靭(ゆき)負(え)らに教えを受けていた。中山広司氏は、造士館においては天保以来、明治維新に至るまで一貫して闇斎学を奉じていたと指摘し、南洲が『靖(せい)献(けん)遺(い)言(げん)』を学んでいたと思われると書いている(中山広司「大西郷の思想」(『西郷隆盛のすべて』新人物往来社、昭和六十年、百九十一頁)。また、南洲が楠木正成の忠節と尊皇心を慕っていたことはよく知られている。例えば、漢詩「楠公の図に題す」で次のように詠んでいる。

  奇策明疇謨るべからず
  正に王事に勤む勿れ真儒
  懐ふ君が一死七生の語
  此の忠魂を抱くもの今在りや無しや

 この詩を含め、南洲による楠公関連の詩は六編にのぼる。
 一方、安政元(一八五四)年正月に初めて江戸に赴いた際、南洲は藤田東湖と接触、書簡の中で次のような印象を語っていた。
 「東湖先生にお目にかかれたのはまことにありかたいことでありまして、大変ていねいに扱って下さいます。先生のお宅に参上いたしますとまるで清水をあびたような気持となり、心の中には一点のかげりもなくただすがすがしい心となりまして帰るのを忘れるほどであります。……何となく自画自讃のようで人には申せませんが、東湖先生は私のことを悪く思っていられぬようで、いつも私を『丈夫』と呼んで下さり身にあまることであります」(山口宗之現代訳)
 陽明学、崎門学、水戸学ばかりではない。南洲はまた、平田篤胤・銕(かね)胤(たね)・延胤三代の国学塾である気(い)吹(ぶきの)舎(や)にも出入りしていた。
 また、二度にわたる流刑時代の思想形成に注目しておきたい。安政元年四月、藩主島津斉彬の庭方役に抜擢された南洲は、一橋慶喜将軍擁立運動に奮闘したが、大老井伊直弼の登場で一橋派は敗北する。同年七月には斉彬が鹿児島で病没し、絶望した南洲は同年十一月、鹿児島錦江湾に僧月照と投身したが、南洲のみ蘇生、奄美大島に流された。
 文久二(一八六二)年一月に召還されて島津久光の朝幕周旋に働いたが、久光に疑われ失脚、沖永良部島に流された。このとき、南州は川口雪蓬と出会い、彼とともに佐藤一斎の『言志四録』を読み解いたという。一方、崎門学に連なる高山彦九郎の忠義心をたたえる詩文を次のように詠んでいる(三上卓『高山彦九郎』平凡社、昭和十五年、十四頁)。
  精忠純孝群倫に冠たり。豪傑の風姿画図に真なり叵(かた)し。
  小盗謄驚くは何ぞ恠(あや)しむに足らんや。回天業を創むるは是れ斯の人。

 渡辺京二氏は、「己れを愛するは善からぬことの第一也。決して己れを愛せぬもの也」という南洲の言葉に、「たゆたうようなゆたかな生命のリズムが感じられる」とし、もし南洲が南島に流刑されて島人と交わることがなかったなら、このような言葉はなかったと信じると書いている。そして、このような人と人との交わりにおいてなりたつコミューン的な感覚は、わが国の生活民たちがその悠久の歴史を通じて保持してきた伝統的感性の核心であったと指摘する(『維新の夢』二百八十九頁)。沖永良部島に書いた「社倉趣旨書」では次のように書いていた。
 「役目と申すものは何様の訳にて相立てられ候哉、自分勝手をいたせと申す儀にては之無く、第一天より万民御扱ひ成され候儀、出来させられざる故、天子を立てられて万民それぞれの業に安じ候やう御扱い成され候へとの事に候へば、天子御一人にて御届き成されざる故、諸侯を御立て成され候て、領分の人民を安堵いたさせ候やう御まかせ成されたることに候へ共、諸侯御一人にて国中の人民御届き成させざる故、諸有司を御もふけ成され候も、専ら、万民の為に候へば、役人におひては、万人の疾苦は自分の疾苦にいたし、万民の歓楽は自分の歓楽といたし、日々天意を欺かず、基本に報ひ奉る処のあるをば、良役人と申すことに候。若此天意に背き候ては即、天の明罰のがる処なく候へば、深く心を用ゆべきこと也」
 やがて、南洲は「道は天地自然のものにして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人、我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり」という立場を固め、次のように独自の文明観を語るに至る。
 「文明とは、道の普く行はるゝを言へるものにして、官室の壮厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何をか文明と云ひ、何をか野蛮と云ふや。少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の国に対しては、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、然らずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりといふ可し」

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