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高嶋辰彦─皇道の理想を追い求めた孤高のエリート軍人

「日本百年戦争宣言」に示された文明転換の志

 年も押し迫った昭和十三年十二月二十九日夜、東京日日新聞記者の浜田尚友は高嶋辰彦の自宅を訪れた。新年に掲載する予定の原稿を受け取ろうとする浜田に、高嶋は四つの条件をつけた。

 ①表題は「日本百年戦争宣言」とすること、②添削は一切行わないこと、③掲載と決した以上は全文を必ず掲載し、「中略」や「中止」をしないこと、④筆者高嶋の写真は載せないこと──。

 原稿を持ち帰った浜田は、採否の判断を仰いだが、東日上層部からは相当の議論が沸き起こった。高嶋が書いた原稿は、次のような新聞社に対する辛辣な批判を含んでいたからである。

 「屈指の大新聞と雖もその論説、政治、経済、社会、学芸、体育、娯楽等の記事に於て、一貫したる理念の下に有機的生命の躍動あるもの果たしてありや否や。況んや各新聞は夫々の個々的立場に於て、国民思想を混乱に陥れてゐる。…心戦敵国の術策には何等の検討を施すことなく、屡々その手先となるの愚を敢てせるを見る。広告欄に於ける醜態は、正に百鬼夜行の一言に尽きる。かくして国の内外に対し、日本文化の高き誇りの真実を不用意にも掩い汚してゐるのである」

 結局、東日は高嶋がつけた条件を全て受け入れて、連載に踏み切った。「日本百年戦争宣言」は、高嶋にとって特別の思いを込めた論文だった。欧米列強の帝国主義外交を批判し、興亜の志を抱いていた高嶋が、一年以上頭を悩ませてきたのは、日支関係の悪化にほかならない。

 昭和十二年七月七日に盧溝橋事件が勃発、八月二日に高嶋は陸軍歩兵中佐・参謀本部作戦課戦争指導班長兼陸軍省軍務局付となったが、その直後日支は全面戦争へと突入していった。十一月二十日には大本営陸軍参謀第一部戦争指導班班長となり、ますますその責任は重くなった。ところが、昭和十三年一月十六日、「蒋介石を対手とせず」という近衛声明によって、支那事変は新たな段階に入る。この日、高嶋は日記に「陛下の熱烈なる和平の御念願も空しく、我等半年の努力も実を結ばずして、事ここに至りたるを知る。実に千秋の恨事なり…翌日更に事実を確かめ、同室の秩父宮殿下をはじめ、一室満坐悲憤の涙にむせぶ」と書いている。

 高嶋は、軍職に対してのみならず、人間としての希望までも失ったような無限の寂しさを覚えて、日夕深刻な心の矛盾に悩んだ。彼は支那事変不拡大派として、主動的な主流の座から外れようとしていた。

 現実の仕事と自らの信念との間の板挟みとなり、悪夢のような数カ月間を過ごす中に、ふと胸に浮んだのは、朝日の出の荘厳な姿を拝することによって、この心の憂さを晴らそうという考えであった。そこで、九十九里浜の片見で朝日の出に合わせて禊行を繰り返した。すると、ある朝、高嶋の胸に次のような考想が浮んだのである。

 「日本の戦争はいくさであってたたかいではない。民草を生かす人道に沿った作用行動であって、たたきあい、殺しあいが最後の目的ではない。従って日本人の戦争に従事する者は、わが身を大切にし、上官、部下、戦友と心を合わせて助け合い、行く先々の民をいつくしみ、不毛を開拓し、民を暴力から防衛し、民衆の安泰、正しい平和の確立を基礎づけるべき作用である。この目的にさえ沿う場合には、敵を殺すこともなるべく避けて、目的の達成を第一義とし、敵をも隔てぬ同仁のなさけ、已に逝きし戦友の遺言は、敵味方双方の供養をも行うべきものである」

 朝日の出奉拝を転機とする考想は、高嶋の太陽信仰への傾倒を窺わせるエピソードとして理解できるのではなかろうか。

 東京に戻ると、高嶋はこの考想を裏付けるために、古今東西の関連文献を貪り読んだ。そして、東西兵法の極意、古今の名将の言行は、それぞれ表現の差こそあれ、究極においては全て神武不殺、後進開発、文明建設、敬天愛人の原理が必勝不敗の要道として貫き説かれていると確信したのだった。

 こうした確信に基づいて、彼は職責を全うしつつ、独自の理論構築を急いだ。昭和十三年三月に国家総力戦を研究するため、参謀本部第一部の外郭団体設置が認可されると、高嶋は「総力戦研究室」を立ち上げている。この研究室は、翌月名称を「国防研究室」と改めた。このとき、高嶋に求められていたのは、総力戦の理論構築であったが、彼はそれを皇道思想によって独自の色づけをしようと決意していた。

 高嶋の研究の最初の成果は、同年十月二十四日完成した『皇戦』である。副題に「皇道総力戦世界維新理念」とつけられた同書序文には、「此の世紀を貫く長期に亘るべき国家総力の戦ひは、我が国体の本義に徹し、正しき東亜乃至世界の再建を目指すとき、始めて悠久に亘って必ず勝つのである。本篇の目的とする所は、此の皇道に即する我が総力戦と、之れに依る世界維新に関する理念の検討である」と明確に書かれている。

 巻末「真日本の完成」には、近世の世界を風靡したアヘンのような西洋学を日本・東洋から一掃し、真に東洋に帰り、いよいよ深く日本自らを究め、建設されるべき「真正日本学」によって、皇道東洋学、皇道世界学に発展させ、それによって世界文化の維新に貢献しようという志が示されている。同書刊行まもなく、高嶋が執筆を開始したのが、「日本百年戦争宣言」であった。その冒頭で次のように書いている。

 「夙に我れ等の予想せし長期戦争の段階に入った。所謂東亜の再建、アジアの復興は即ち同時に溷濁を極むる近世を転換して、我が皇道に即する新しき世界の創造を意味するものなることを覚悟しなければならぬ。蓋し、近世に覇たる西欧の繁栄は、アジアよりの搾取に依つて培はれ、その世界制覇は東洋植民地侵略に依つて成つたが故である。即ち支那事変の解決は、同時に史代的世界転換を結果するものでなければならぬ。これがため、万民悉くその総てを天皇に献げ帰一し奉る戦こそ、筆者の力説する皇道総力戦即ち皇戦なのである」

 こう宣言した上で、彼は西欧的侵略の思想的側面に焦点を当て、概要次のように主張した。西欧的侵略の進行によって、日本国内における思想、学問、文物制度などの中に、我が皇道と甚だ縁遠い西欧植民地的形態を示すものが出てきている。いわゆる植民地侵略とは、単なる政治的、経済的部門だけではなく、歴史の歪曲、理念の欺瞞、曲学の流布、謀略的文物制度の移入などこそ、最も深刻で、恐るべき侵略であることに気づくべきである。

 高嶋によれば、日支の対立の背景にも、西欧による思想的侵略がある。彼は、支那が真の支那を知らず、日本が真の日本を知らず、東洋の文化、生命体的運命を自覚しないことから、日支の対立ももたらされていると説いた。

 そして彼は、速やかに近世自由主義の鉄鎖を断つだけではなく、日本を枢軸とする新世界創造の理念を確立すべきだと主張した。帝国主義外交とは異なる、人類の文明転換という崇高な理念を示せというのだ。つまり、高嶋の信ずる百年戦争の最終目標とは、近世の文明を転換し、新しい世界を創造することであり、そのために、全世界に対する総力戦争の遂行と、内においては皇道真日本の完成に努力すべきだと主張し、この構想実現のための最大の急務は「綜合大武力の整備と、新世界を創造すべき皇道文化体系の建設」だと書いた。

 連載をまとめて『日本百年戦争宣言』として世界創造社から刊行されたが、現在それを入手することは難しい。幸い、太田龍『長州の天皇征伐』に資料として収録されている。

仲小路彰の「日本世界主義」と小牧実繁の「日本地政学」

 高嶋は、「日本百年戦争宣言」を執筆する過程で、多様なブレーン集団を形成していた。その一つが、「昭和の天才」と呼ばれた仲小路彰を中心とする人脈である。仲小路は大正十三年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業、研究室に残って学問を続けないかという指導教授の勧めを断って、独自の「日本世界主義」思想を展開した。やがて仲小路の周囲には一種のサロンが形成されていった。これをもとに昭和五年に「科学文化アカデミア」が誕生、三枝博音、佐々弘雄、唐木順三などが同人として参加した。昭和九年頃から仲小路は『図説世界史話大成』を書き始めていた。この活動を、野島芳明氏は「近代史を支配しているヨーロッパ的世界史に対して、その超克を目指した日本世界主義の前奏曲」と位置づける(野島芳明『昭和の天才仲小路彰』展転社、平成十八年、二十二頁)。仲小路の「日本世界主義」は、日本が近世の文明を転換し、新しい世界を創造するという高嶋の構想に強い影響を与えていたと考えられる。高嶋が仲小路と初めて会ったのは、『皇戦』を書き上げた直後の昭和十三年十月二十七日のことであった。

 一方、国民精神文化研究所に所属していた小島威彦は昭和三年から仲小路と交流を持っていたが、昭和十三年に海外視察から帰国し、仲小路の超人的作業を目のあたりにし、彼の著作を刊行するために世界創造社を設立した。高嶋の『皇戦』も同社から刊行されている。

 西尾幹二氏は、高嶋の考え方は、仲小路、小島たちと基本において同じ考え方であり、二人と交わした毎日の研究討議の結果が「日本百年戦争宣言」に反映されていることは明らかであると指摘している(西尾幹二「『欧米による太平洋侵略史』が語る歴史の必然」『別冊正論 十三』百六十五頁)。

 昭和十五年に入ると、仲小路、小島らは「スメラ学塾」を立ち上げた。野島氏は、スメラ学塾は、世界の中で、または欧米が支配している世界を引き離して外から眺めるような世界史の演劇を語る世界史塾をつくりたいという日本浪漫派の情熱の結晶であったと書いている(『昭和の天才仲小路彰』、二十四頁)。

 スメラ学塾の講義の中核を担った小島は、日本中心の独創的な世界史を講じた。スメル(シュメール)文明はメソポタミアの最南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に築かれた文明を指すが、小島はこのような地理的な概念ではなく、世界文明の接合点としての「スメル文化圏」を想定し、その実質的形態は、太陽神話の形態として祭政一致の社会形態を形成していたと論じた。そして、全てのスメル文化圏を統一して再び新たな世界史を作らなければならない、そういう必然性に立った時に初めて日本の建国がなされたと説いた。独断的な面もあるが、世界史におけるわが国の文明史的役割を説く彼の主張は、着想においては高嶋の思想とも通じていたかに見える。

 小島の『懐想 仲小路彰』によると、高嶋は世界戦史の協同研究をスメラ学塾に申し入れてきた。また、スメラ学塾は海軍大学校教官富岡定俊大佐の戦争史研究とも連繋していた。末次信正海軍大将が塾頭を、駐伊大使白鳥敏夫、駐独大使大島浩らが講師を務めていたことに、その性格が示されている。

 一方、「皇道に即する総合世界地理を創造せよ」(「日本百年戦争宣言」)と主張していた高嶋は、京都帝国大学の地理学教室を率いる小牧実繁のグループとも協力した。昭和十三年十一月に高嶋から「政治地理学」研究の依頼を受けて以来、共同作業を進めた小牧は、昭和十五年に刊行した『日本地政学宣言』で、「…吾々の地理学は…一切の土地に関する学問体系の頂点に位し、…世界総力戦に於ける皇道日本総力戦、即ち皇戦の頭脳として、皇国の進路を誤らざらしむるべき使命を負わなくければならないのである」と書くに至る。

 ヨーロッパ中心の世界史を相対化しようとする高嶋らの思想構築の試みは、高山岩男の『世界史の哲学』に通ずる部分も少なくない。

「聖戦は恩威併せ行われる仁義の戦い」

 高嶋は、明治三十年一月十日、福井県坂井郡三国町に多賀谷儀三郎の四男として生まれた。十四歳になった明治四十四年九月、辰彦は名古屋陸軍地方幼年学校に入校する。その前年、同校受験の際の成績が抜群だったため、三国町出身の桑名連隊区司令官高嶋嘉蔵少佐に見込まれ、養子として入籍、高嶋姓となった。

 名古屋陸軍地方幼年学校で、高嶋に強い影響を与えたのが同校教頭としての倫理の講義を担当した石川一男であった。高嶋は次のように振り返る。

 「先生の倫理教育の重点は、勅諭勅語の謹解等を通じて歴代の御聖徳を具体的に教示され、民については忠節至誠、献身奉公等の実績の例を古来の人物について、しかも血湧き肉躍るようなお言葉で教示され、われら幼年生徒の心は異常な感動の中に自然に培われたのであった」

 大正三年七月、名古屋地方幼年学校を卒業、成績優等により恩賜品を拝受している。大正五年五月に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、同年十二月陸軍士官学校に入校(第三十期生)する。同校卒業の際にも、成績優等により銀時計を下賜、御前講演の栄に浴している。陸士卒業に当り、彼は「献身殉国ノ大節アルノミ、張良タルト韓信タルト報効ニ於テ何ゾ選バンヤ」と、その所懐を賦している。

 こうして、彼は典型的なエリート軍人の道を歩んでいく。高嶋の後輩町田敬二が「彼の将来は陸軍大将が約束されていたし、もちろん陸軍三長官のどこのポストも席をあけて待っていたであろう〝優等生〟であった」と振り返るほどである。

 大正十四年に陸軍大学校を卒業した高嶋は、陸軍省軍務局付となり、昭和二年三月には陸軍歩兵大尉となった。昭和四年から三年間、軍事研究員としてドイツに駐在し、ベルリン大学、キール大学などで学んだ。ドイツ駐在中には、欧米の主要国を回ってその国情、民族の実態をつぶさに観察した。帰国後、軍務局軍事課予算班長として辣腕を振う傍ら、皇道思想、興亜思想を学び、昭和十二年から参謀本部作戦課に所属し、その才能を開花させることになったのである。

 昭和十三年十月、高嶋は「広範な人々に、国防学研究の必要を訴え、啓蒙の成果を挙げるため」に、皇戦会の発足に動き始めた。ところが、陸軍次官の東條英機中将に反対され、年内に発足させることはできなかった。

 それでも、高嶋は皇戦会構想を諦めず、昭和十四年一月十一日に、教育総監部第一部神田正種少将、陸軍大学校幹事坂西一良少将を発起人として皇戦会趣意書を書き、同月末から賛助者の署名を集めて回った。四月一日に軍人会館において皇戦会の発起入会が行われ、五月五日に青山の青年会館に皇戦会事務所を開設、五月二十日に財団法人の許可を得た。そして、会長に靖国神社宮司鈴木孝雄大将、顧問に平沼騏一郎首相、荒木貞夫文相、柳川平助興亜院総務長官をはじめ多くの人を迎え入れることにも成功した。こうした行動も、陸軍上層部に快く思われていなかったのかもしれない。

 昭和十五年十二月二曰、高嶋は台湾歩兵第一連隊長(台湾軍、第四十八師団)として海南島に赴任することになった。 国防研究室は解散され、その業務は昭和十五年九月に開設された総力戦研究所に引き継がれた。皇戦会の常務理事の任は、総力戦研究所の渡辺渡大佐に引き継がれた。

 高嶋のもとで戦争指導班に所属していた間野俊夫は「一連の部外活動は次第に省部特に陸軍省方面の目障りとなる面もあったようで、台歩一への転出はその結果だと思っています」と語っている。町田敬二は、皇戦思想によって構築された高嶋のマクロな世界観が時流にハーモニーしなかったと振り返る。

 「皇道には断じて圧政なく搾取もない」という高嶋の崇高な理念が軍の行動を縛ることが、警戒されたのかもしれない。後に高嶋は「百年戦争と平和論」(昭和三十一年)において、敗戦という結果に終わったのは「力の優劣だけでなく、日本自体が一部で過去の植民地的なアジア搾取を思わせるような、逆行堕落を見せたため、東亜の人心を失ったことと、力の限界を考えて、進退かけ引きの時宜を選ぶという大政治力にかけていたからである」と書いている。

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高嶋辰彦─皇道の理想を追い求めた孤高のエリート軍人

坪内隆彦

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国を磨き、西洋近代を超える。『月刊日本』編集長。近著『GHQが恐れた崎門学』『アジア英雄伝』『維新と興亜に駆けた日本人』
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