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ロンドンナショナルギャラリーを観た

昨日、西洋美術館で開催中のロンドンナショナルギャラリーを観に行った。
ルネサンスからスペイン、フランス、オランダといった国ごとの作品、最後に印象派という流れだった。
絵を自分が始めてから初めての絵画鑑賞だった。
最初のルネサンス等を観ている時はあまりの精密さに自分の心が暗くなっていた。
しかし、その絵は観る人の心に訴えかけるかと言えば、一部の作品を除き、そんなことはなかった。
そして印象派のエリアに入った。
まず目に止まったのは人だかりができたモネの池と橋の絵だ。
使われる色が淡い綺麗な色で、その前までの落ち着いた色との対比に目立っていたこともあると思うが、やはりモネの絵は多くの人々の心を捕らえるのだと思った。
もちろん、僕もその内の一人だった。
近くに寄ってどのようにその綺麗な色がキャンバスに乗っているかを観た。
様々な色が他の色と並んでボテッと塗られていた。
あれを描いている時の快感といったら凄かっただろうと想像した。
目の前の景色に感動して描き始めたモネは絵を描き進めていくにつれて目の前の自分の絵にどんどん心を奪われていったに違いない。
自分も絵を描いていると自分の絵に心を奪われていく。
これは画家全員が共通していることではないだろうか。
次に観たのはルノワールだ。
年齢関わらず誰もが目を止めるモネと違いルノワールは上品な、落ち着いた美しさがあった。
それは色の選択や、筆をしなやかに使って輪郭を曖昧にしたような描き方からだろう。
絵に描かれた少女は迎賓室から舞台を観ていた。
あまり身分が高くない青年が自分より身分の高い意中の女の子を見ている視点ではないかと想像させるような上品さがあった。
作品集でみていたルノワールの本物の筆跡を観て感動してしまった。
その近くにセザンヌの絵があった。
山々や田んぼといった田舎の風景を描いた絵だ。確か、あの絵をセザンヌはいくつも描いていたと聞いた覚えがある。
近代絵画の父と呼ばれるセザンヌは印象派の中でも少し違った印象であった。
印象派以前の精密に描かれた絵より印象派の方がわかりやすく人々を感動させることはわかっていたし、実物を見て確信することができたがセザンヌがそれをどう変えたのだろうか正直わからなかった。
ピカソなどの絵と近い所があり、物を印象派よりも抽象的に描いて、最小の要素で人に物を認識させようということなのだろうか。
でもそれはゲームの世界であって一般の人にとっては興味がないというか、ここで絵画が専門に閉じられてしまったのではないかと思った。
せっかく印象派が金持ちしか楽しめない絵を市民に開くことが出来たのに、今度は専門に閉じてしまうなんて。
僕のこの解釈が間違っていてセザンヌの意図が他にあればいいのだが。
これは今後、考えていくとして展覧会場に戻ろう。次のエリアはただ一つの絵が展示されていた。ゴッホの"ひまわり"だ。
これは絵をやっていなかった僕でも幼い頃から知っていたので「まさか本物を観れる日が来るとは」という気持ちだった。
しかし、期待を裏切る感動はなかった。
もちろん、綺麗で感動したのだが、突き抜けた感覚はなかった。
ただ、背景の黄色が離れてみると金色に輝いてみえたのは不思議だった。
近くで見ると黄色だったので色の配色で金色にみえるように調整したのかもしれない。
やはり、僕は専門的に評価されるより誰もがよいと思える開かれた作品をつくりたいと思う。
これは自分の周りの人に喜んでもらいたい僕の性格からだと思う。
なので印象派のモネやルノワール、ゴッホのような美しい絵を描きたい。
並ぶのも難しいが超えたいと、もちろん思う。
どうしたら超えたと言えるかまだわからない。
そのヒントとしてセザンヌやピカソがいるのかもしれないが、そうではなく違う道に行ってしまったという可能性もある。
なんにせよ、僕がやるのは描くことだ。
建築は色々インプットしたがどうしてもアウトプットしようと思えなかった。
しかし、絵は毎日描いて着々と成果がみえている。このまま突き進もう。
もしかしたら建築もそれによってアウトプットしたくなるかもしれない。

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