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【小説】ネコが線路を横切った13

今までのお話はマガジンから

西洋居酒屋にて、マスターと少女の未来

 マスターの前では、春海は素直になるしかなかった。
 彼は、春海が話し始めると、最後までだまって聞いてくれたから。
 両親はいつも仕事で家にいないこと、家政婦のミチコさんが親代わりに世話してくれること、なんとなく満たされない思いから家出したこと、を春海はとりとめもなく話した。

「で、春海ちゃんはこれからどうしたい?」

 は?
 春海は、マスターに怒られるかもしれないと思っていたので、ぽかんと口を開けてしまった。
 どうしたい。
「わかんない」
 
 どうしたい。
 そんなことは考えてなかった。
 自分がどうすればいいかは、親とかミチコさんとか、学校の先生が考えて言ってくれてた。
 でも、と、春海は思う。
 それが自分の心の奥にあるモヤモヤの正体なのかもしれない。

 自分は何をしたいのか。
 
「じゃ、俺のところにいる間に見つかったら教えて」
「なにを」
「将来、どんな職業につきたいか。どんな人になりたいか」
「うん」

 春海にとっての、夏休みの宿題。
 将来を考えること。

 

 とにかく、今を一生懸命やってみよう。と、春海は決めた。
 一生懸命起きる。
 一生懸命キチャッチボールをする。
 一生懸命店で洗い物をする。
 一生懸命マスターの姿を見つめる。
 一生懸命寝る。

 2週間経った頃、春海はマスターのところまで、なんとか投げたボールが届くようになった。
 3週間を過ぎると、ボールを投げ合うだけのことが、面白くて面白くて仕方なかった。

 西洋居酒屋のカウンターの中で、春海はときどきノートにメモをする。
 タケサンは、酔う前触れがある。
 ケンチャンは、日本酒が本当は好き。
 女性向けにプリンサンデーとかあったらいいな。
 料理が上手くなりたい。
 メニューを全部決めて仕切ってみたい。
 買い出しで、工夫できるところはあるかな。

 8月28日の午後。
 白いボールが、春海の手から離れて青い空に舞う。
 ぽん、と、マスターのグローブに収まる。
 すぐに投げようとするマスターに、春海はグローブを構えずに言った。
「マスター」
「ああ」
「明日の朝食はいらないから」
「決めたのか」
「決めた。でも、言わない。今は」
「そうか」

 8月29日。
 春海は家に帰った。
 ノートを西洋居酒屋に忘れたまま。

つづく


※この物語はフィクションです。
実在の場所や団体、個人とは関係ありません。


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