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違うって、なんて財産なんだろう

※画像は本記事と一切関係がございません。

お久しぶりの投稿、少し緊張します。(笑)
ただいまnote!

「バベルの塔を作った人間に怒った神様は、人間同士の言葉を違うものにし、意思疎通が困難になるようにした」。
と書いてありますが、ここでは、「違いはダメなもの」という風に書かれています。
しかし、私は最近、「違いは財産だ」ということに改めて気づかされたんですよ。
(キリスト教を信仰していらっしゃる方は、誤解を生むような表現をしてしまい、申し訳ございません。)

違うことは分かっていたけれど…。

もともと、私は人間同士が違うこと、分かっていました。
でも、いまいちその意味を履き違えていたようで。
「私と人、違うのは当たり前だが、違うから分かり合えない。分かり合う必要はない。だって元々違うから」
というような人間でした。
それはそうなんだけど、最近、それを覆してくれる友達に出会って。
その子は、「他人に抜かされる感じが好き。もっと頑張ろうと思えるから」
「他人から良いところを抜き取って、良い自分になりたい」
というような子でした。正直、私とはちょっと違うタイプの人間だったけど、
その子の考えに圧倒されてしまい、私も、他人の良いところを研究して、自分のものにしてしまおうという風な考えになっています(笑)

違うから分かり合えない?

違うから分かり合えないと言ったら、もうそこまでなんですよね。だから、「他人は他人」という考えを過激派に解釈して、突っ走っていて、気づいたら周りには誰もいない…
そんな人間でした。

違うから分かり合えない、
じゃあ、分かり合えないなりに「何か学んでみたらどうなんだ?」と考えるようになりました。
他人と私は違うから、じゃあ何かそこから良いものを取り出してみよう。あら、素敵!私もここ見習いたい!
このような感覚が大好きになりました。
ここから、私の人間関係が少しずつ変わっていくのがわかりました。
とりあえず仲間ごっこの関係から、学び合う関係を望むようになって。

前の私は、考えることが嫌いだったんだな、とつくづく反省しております、、
「思考停止したネトウヨは嫌い」と言っている私が、一番思考停止していた人間だなんて。嫌いな人間が、じつは自分の映し鏡だったなんて、、、本当の言葉なんだな。。。
だって、考えない方が楽だし。違うことを建前にして、塞ぎ込んで、成長しなかったこと。その方が楽。
人間は、自分がいる世界から離れることを恐れていることって本当なんですよね、、自分がいる世界が変わってしまう。
死ぬことも同じ。自分の持っている考えが変わること。日本社会に生きる人だったら、少しは理解ができるかもしれません。
でも、そうしたらいつまでも成長できないわけ。自分の持っている考えを、さらにアップデートしていかなければならないのです。
私の学校はグローバルな学校で、一人一人のルーツも違えば、家庭環境も違う。それが顕著な学校です。
アジアと一括りにしてしまえば同じだけど、周りの国と日本は違うんですよね。
中国から影響を受けているけど、少しだけ違う。
だからこそ、お互いの価値観を理解して、共生に繋げていくべきだと思うんです。
「違う国だから、分かり合えない」
「違う人だから、理解できない」
そうかもしれない。でも、違いって、なんて面白いんだろう。違うことって、実はとてもアップデートには役立つことではないか。
違うから、という風に、ひとまとめにせず、自分らしさを大切にした上で、他人の良いところを学び、自分もそれを見習って、人生をより楽しくしていきたいです。

私も、塞ぎ込んでいた頃の私より、周りの良いところを研究して、自分のものにしていった方が毎日が充実する、と実感する毎日です。