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闘病中の人にメッセージを贈る時 大切なことは“タイミング”では?

日本型経営企業は、トップダウン型の組織構造のヒエラルキー型組織が多い。

所謂“村社会”なので、固定化された組織の中に長い間いることは『思考の硬直』を招き、広い視野を持つことができなくなる。

小さな組織の中の考え方に囚われがちで、自由な発想がなくなってしまう。

そして、世間の一般常識と乖離した“常識”が定着してしまう恐れすらある。

イノベーションが起きにくい組織だ。



職場で新しいことを始めようとすると、必ずと言っていいほど「反対派」が現れる


「これはダメだ」

「私は絶対反対!」

と、自分の意見をハッキリと伝えているようだが、“反対意見”しか言わない&言えない人たち。


「じゃあ、どうすれば上手くいくのか?貴方の代案を教えて欲しい」

と聞いてみると

「リスクが高すぎる」

「時期尚早」

といった“理由にもなっていない漠然とした理由”を言ってくる。


そして、職場には、何も言わない&言えない「無関心派」が多数存在している。

この「無関心派」の判断基準は、自分にとっての“損得”。

意見の内容は二の次で、

「誰が言ったか」

「多数派についていった方が“得”だ」


といったことが重要だ。


議論するには、最低限のルール&マナーがある。

それは、双方とも相手の意見・その理由をしっかり聞くことだ。

職場に限らずに、あらゆるコミュニティでも同じこと。




送別会の【寄せ書き】はいらない


サラリーマン時代 転勤や退職の都度の送別会で、職場メンバーから【寄せ書き】贈られることが“しきたり”になっていた。

私は、親しくもないメンバーに心無い言葉を書いてもらうことが、気持ち悪いし、全く嬉しくない。

もちろん、私も毎年、親しくもない転出者に、全く心無い送別メッセージを書かされてきた。

私にとっては、この【寄せ書き】は、いらない(即ごみ箱行き)モノ。


転出者が受取を辞退しても許されなかった。

学級委員・風紀委員タイプから

「みんなの気持ちや想いですよ。その【寄せ書き】を必要ないなんて、貴方は他人の気持ちが分からない方ですね。」

と罵られるだけ。


転出者が、欲しいか?欲しくないか?が基準なのであって

“しきたり”や“慣例”が基準ではないはず。


無関心派にとって、転出者がどう思おうと“無関心”。

【寄せ書き】反対派の意見なんて“面倒臭い”だけのこと。




『今の自分』を客観視できるか?


先日、闘魂アントニオ猪木さんが、病魔に侵された姿を動画公開した。

現役時代とは見違えるほど痩せてしまった現在の姿を観るのは辛く、言葉が見つからなかった。

病院のベッドに横たわったままだが、それでも人々に対して勇気づけようとしている姿

ファンならずとも回復を祈る多くの声があがっている。


私も闘病生活をおくった経験があるが、自分を保つことに精一杯で、他人に対する“思いやり”の気持ちなどなかった。

そして、もちろん悪気がないのはわかっていたが、普段なら軽く受け流せるような何気ない家族の一言でさえ、心に刺さって、傷ついたり、怒ったりしていた。

相手の“思いやり”など感じ取る余裕もなく、心がすさんでいたのだろう。

「本当は、こんな自分じゃない。」

と思っているが、以前出来ていたことが上手くいかない。

焦れば焦るほど、現在の自分を受け入れることが出来ずに“自棄”になっていた。

そして、一番大きかったのは

「今の自分を他人に見られたくない」

という思いで、他人の視線が怖かった。

長い時間がかかって「今の自分」を客観的に見つめることができるようになって、「今の自分はこんな人」と認めることができるようになった。


そして、この現実を自ら他人に話ができるようになるまで、猪木さんのように、自分の姿を世間にさらすことなんて考えられなかった。




『病人に楽しいことをイメージさせて目標を与えるのはいいこと』は決して間違いではないが、、、


回復可能な怪我や病気であれば

「時間が薬!今はゆっくり静養してや」

といった気楽なメッセージも贈れる。


しかし、そのメッセージは、タイミングさえ間違えなければ という話だ。


タイミングを見計らうのはとても重要で、その判断を的確にできるかどうかは、いかに相手を“思いやれる”かどうかだろう。


そして必要なのは想像力。


自分の都合を病人に押し付けているだけは、病人を追い詰めてしまうだけだ。




ミュージシャンの先輩が倒れた


先日、大学時代の音楽サークルの先輩にあたるミュージシャンが、ラジオ番組のスタジオで脳内出血によって倒れた。

緊急手術によって一命はとりとめたが、今はリハビリ病院に転院して回復に向けの努力を続けている。

しかし、まだ、言葉を発するこができないとのことだ。


厚生労働省の資料によると

40歳以下の脳卒中発症者では、約40%の人が完全自立(※)まで回復すると記載されているが、65歳以上では約20%の人しか完全自立まで回復できないようだ。

(※)完全自立とは、後遺症がないかあっても日常生活や社会生活に問題がない状態。


そんな折、音楽サークルOB会の先輩が旗振り役となって

「“励まし音楽動画”を作成するので参加しませんか?」

という連絡がきた。

私は闘病中の先輩と、然程親しい間柄でもなかったこともあり、お断りした。


断った最大の理由は?

どうしても『“タイミング”が違っている』としか思えなかった。


音楽で生計を立ててきた人間が、後遺症の程度によっては、大好きな音楽を断念しなければならない?

という先行き不安感しかない状態で、知人の“学芸会励まし音楽動画”を観たいだろうか?

私が闘病中の先輩と同じ境遇であったら、絶対観たいとは思えないだろう。


第三者の私が云々評論する資格もないし、何が正解なのかはわからない。

闘病中の本人が、どう思うか?どう感じるか?

ここが基準なのではないだろうか?


グループFacebookの投稿で“励まし音楽動画”が完成したことを知ったが、観る気にもなれなかった。

私は、これを機に、この音楽サークルOB会から脱会した。




“絶対に言ってはいけないこと” かもしれないが


倒れた先輩に、どれだけの貯えがあるのか?わからない。

長期間の闘病生活になると思われるので、それなりの出費があることは間違いない。

昔ヒットしたTVドラマのセリフにあるように

『同情するなら金をくれ』

というのが先輩の家族の本音のような気がするが、、、。


この考え方は、学級委員・風紀委員タイプの人々から

「不謹慎」

「非常識」

「人間じゃない」

と怒られるのだろう。




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